鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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注⑴京都・大学ミュージアム連携による研究成果は、並木誠士氏、松尾芳樹氏、岡達也氏の『図案からデザインへ近代京都の図案教育』(淡交社、2016年)とそれに関連する展覧会、並木誠士氏編『近代京都の美術工芸─制作・流通・鑑賞─』(思文閣出版、2019年)などに見ることができる。津田青楓の図案については、杉浦美紀氏「津田青楓の図案について」(『京都国立近代美術館研究論集CROSS SECTIONS vol. 3』2010年)に詳しい。拙稿「津田青楓の図案の変遷さらに、青楓の図案集を見ると、笛吹市青楓美術館所蔵の『華紋譜 楓之巻』には「西染工場」の印が〔図9〕、京都府立京都学・歴彩館所蔵の『図案集』には、「西村吉図案部」〔図10〕、『青もみぢ』には、「西村吉」〔図11〕の印が押されている。「西染工場」は染織工場であろうか。「西村吉」は、青楓が丁稚奉公に行った「千吉」の可能性がある。このことは、これらの図案集が実際に使用されていたことも考えられ、決して青楓が流行を把握していなかったわけでも、実用的な図案を制作できなかったわけでもないと考えてよいだろう。おわりにかえて青楓はパリ留学後、現地で出会った高村光太郎や富本憲吉らと交わり、工芸活動にも積極的になる。この頃の青楓らのことを、高村豊周は「工芸革新運動の急先鋒」(注14)と評している。青楓は自らの図案で刺繍作品を制作し、青楓図案社を設立して、便箋や絵葉書などの図案を描き販売した。初めて装丁を手がけた森田草平『十字街』(春陽堂、1912年)では、自刻自摺の壺の絵を原画として使用した。明治京都での青楓の図案は、染織図案を意識して作成したものの他は、実用的ではなかったかもしれない。しかしながら、旧来の図案を追従するのではなく、新しい図案を考案するべく、写生を元にして独自の図案を制作しようとする姿勢はその当時の流れを汲んだものであった。それは実業的というより、芸術的な価値に重きをおくオリジナリティを生みだそうとする芸術的活動であり、その後の青楓の活動の基盤となっているものである。大正7年(1918)、青楓と杉浦非水を比較する記事で、「青楓は図案界に生きておるとはいうものの徹頭徹尾芸術家だから何時どう図案を止めないとも限らない(注15)」と述べられているのも、これを証明しているのではないだろうか。本研究では、青楓の図案を使用した作品を見つけることも目的の一つとしていたが、叶わなかった。これは引き続きの課題とし、今後も青楓の図案の調査を続けるとともに、大日本図案研究会のように青楓とは違う立場にある図案家についても調査・研究し、この時代の図案について理解を深めていきたい。― 489 ―― 489 ―

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