⑥須田国太郎の絵画作品における芸術理論的背景の研究─「京都学派」との相関関係を中心に─研 究 者:沖縄県立芸術大学 美術工芸学部 准教授 土 屋 誠 一西田幾多郎(1870年-1945年)や田邊元(1885年-1962年)、そしてその教え子たちを中心に、京都帝国大学を中心に形成された、いわゆる「京都学派」については、個々の哲学者たちの思想の是非については、今日なお議論が継続しているものの、京都学派が日本の近代哲学において無視することのできない重要な潮流であったことを認めない者はいないだろう。しかし、こと美術との関係となると、京都学派との相関について、語られることは多くない。勿論、京都学派において美術史を専門とする学者がいなかったということは事実だが、その隣接分野である美学・芸術学の講座が設置されていたことも見逃すべきではなく、深田康算(1878年-1928年)にはじまり、植田寿蔵(1886年-1973年)のようなかなり美術史に寄った業績を残した学者もいれば、中井正一(1900年-1952年)のような際立った学者も輩出している。敗戦後になれば、井島勉(1908年-1978年)のような、同時代の美術実践に積極的に関与する美学者も登場するが、西田や田辺、深田や植田が、直接的に日本国内の美術の実践に影響を与えたという事例は、管見の限りほとんど見当たらない。とはいえ、本論で取り上げる須田国太郎(1891年-1961年)は、日本近代の洋画家として、今日では確固たる評価を獲得しており、須田が大学教育を修めた京都帝大において、深田の門下生として卒業したことを踏まえ、京都学派との関連性について、これまでもいくつか論じられてきた経緯もある(注1)。そのため本論では、須田と京都帝大(あるいは太平洋戦後の京都大学)とのかかわりについて、これまでの先行研究を踏まえた上で、より実証的なレヴェルでの影響関係の考察を行っていきたい。そのことによって、日本の近代美術の展開と、京都学派との関連という、近代日本の思想形成において重要なミッシング・リンクを再確認し、須田の画業や彼が残したテキストを通じて、芸術思想史上におけるその重要性を再考することに寄与することを望むところである。本研究では、須田の没後に京都大学に寄贈され、現在、大学院文学研究科図書館に収蔵されている「須田文庫」を調査し、その調査結果から得られた情報を手がかりとして、京都学派、特に西田幾多郎の哲学から須田が引き継いだものを検討する。この点については追々述べるとして、まずは須田の芸術思想の形成について、論じていきたい。須田は、大正2年(1913)に京都帝大哲学科に入学し、深田康算のもとで美学・美― 494 ―― 494 ―
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