術史の研究に取り組み、「写実主義」という論文(注2)を提出し、卒業している。須田自身、旧制高校時代より油絵を独学で描き始めており、大学院進学後も関西美術院において研鑽を積み、大正8年(1919)から大正12年(1923)にかけてのヨーロッパ遊学においては、マドリードに拠点を置きつつ、ヴェネツィア派の絵画を中心に、模写などを通じて絵画の研究に取り組んだことは、よく知られたとおりである。画家としての本格的なデビューは、昭和7年(1932)の資生堂画廊での、須田が41歳の折の個展を待たねばならぬが、美術史学者としての教育活動と並行して、滞欧時から既に、画家としての意欲を強く持っていたことは、今日残された作品からも判断できることである(注3)。ところで、須田の京都帝大における指導教員は、彼の専門分野からして当然ではあるが、先述したとおり、深田康算にあたる。東京帝大において、ラファエル・ケーベルに学び、ドイツ・フランスに留学したのち、京都帝大に着任する深田は、生前に纏まった著作を残していないため、深田没後に教え子の中井正一らによって編纂された『全集』から判断するほかないが、テオドール・リップスのような、感情移入説を主軸とする哲学者への傾斜が強い。また、哲学研究者としては、カントの『判断力批判』の初の日本語全訳を手掛けていたが、これもまた、深田自身の夭折によって途絶してしまった。そして、大学の演習授業においては、ハインリッヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』を使用していたという。ゆえに、深田の思想や知識から、どれほど須田への影響があったのかを測るのは、いささか困難ではあるのだが、深田よりもむしろ、直接の師ではない西田幾多郎からの影響を検討することのほうが、より有益な思想的継承を発見できるように思われる。その鍵となるのは、在野の芸術学者として活動し、京都学派の学者たちにおいて、しばしば論及の対象となる、コンラート・フィードラーの存在である。西田がフィードラーのテキストに言及するのは、大正6年(1917)に発表した著作『自覚に於ける直観と反省』が初出である。須田が卒業論文を書き上げるのが大正5年(1916)なので、須田の卒業論文のほうが先立つわけだが、卒業論文が一般的には公刊されることないものであることを前提とする性質上、須田が学士過程に在籍中の時点で、既に京都帝大の哲学科コミュニティにおいて、フィードラーが読まれていたという可能性は高い。そして、須田自身の回想によれば、西田の講義においては、先述した『自覚に於ける直観と反省』を教科書としていたという記述もあり(注4)、この回想が、学部生時代のことを指すのか、修士課程在籍中のことを指すのかが判然としないが、西田のサークルの近傍に居れば、須田の卒業論文執筆時において既に、― 495 ―― 495 ―
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