鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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フィードラーの存在を知り得ることができたと考えるのは、さほどおかしな話ではない。西田は、『禅の研究』(1911年)刊行の翌年には、フィードラーの主著たる『芸術活動の根源』を既に読んでいるからだ(注5)。では、フィードラーの受容を、積極的に推進していたのが誰かと問うならば、須田の直接の師である深田ではなく、須田もそのゼミナールに出席していたという、西田なのではないか、というのがその仮説となる。深田がフィードラーに関心を持っていなかったということはないが、例えば深田の「美學と藝術學」(1916年)、「美學の基礎についての考察」(1918年)、「藝術上の眞」(1924年)といった論考で言及はあるものの、美学者であろうとする深田の立場から、そこから芸術学を分離しようとするためもあるだろうが、決して好意的ではなく、むしろごく冷淡に扱われていることは確認しておいていいだろう。そう考えるならば、須田は直接的な師である深田から、その思想を継承したというよりもむしろ、西田を経由したフィードラー像を得ていたと考えたほうが、より素直な理解になると思われる。さて、フィードラーとの関係に関して、須田の卒業論文である「写実主義」の梗概を、先行研究である齊藤陽介の当を得た論文をそのまま引くならば、次のとおりである。須田による写実主義という用語は、realismがその同格の概念となるが、須田はこの卒業論文を西洋におけるリアリズムを系譜学的な展開として描いており、「第1に複製的模倣説の否定とそれに伴う芸術的変更の肯定、第2に、アリストテレス『詩学』にみられる「作品内の統一」(必然性)の理論、第3に、シェリング/フィードラーが提起する現実産出能力」(注6)をその帰結とするものだ。近代へと時代が漸近していく第三の点がここでは重要で、シェリング、フィードラーを媒介した須田の理解によれば、絵画における現実産出能力は、あくまで画家と自然との交渉に基づくものである。ゆえに、印象主義以降の絵画における、絵画面上に組織される色彩と、描かれる対象が持つ固有色とを、必ずしも一致させることを旨としない方法は、所与としての自然をさほど重視しない点において、退けられつつ、同時に、印象主義の流れのなかにおいて、自然との弁証法を重視したセザンヌが擁護されることになる(注7)。つまり、須田のこの卒業論文においては、「写実主義」ということを、近代フランスの自然主義からレアリスムへといった、狭義のそれとして捉えているのではなく、プラトンのミメーシス論にまでその源流をたどり、その今日的可能性を問う、という広義の「写実主義」として構想されているわけだ。この写実主義=リアリズムという点は、これまで多くの須田論者において、それをどのように把握すればいいのか、頭を悩ませてきた問題である。まず、端的な点から― 496 ―― 496 ―

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