言えば、須田の作品のほとんどは、外界の光景を画面上に転写するといったような、素朴リアズム的理解とは程遠い絵画であり、須田はそのような作品を展開した画家である。しかし、デフォルマシオンの強調されるセザンヌの絵画すらもリアリズムの枠組みにおいて把握しようとする須田は、単に卒業論文のテーマとしてリアリズムの問題を考察しようとしたというだけではなく、須田が画家として世間に認知され、商業媒体から文章の執筆依頼が舞い込むようになって以降、例えば「写実主義の存在理由」(1935年)、「近代絵画とレアリスム」(1948年)といったエッセイに見て取れるように、リアリズムに対する基本的な考え方は変わっていないし、そうしたリアリズムに対する思想が、須田の絵画実践において反映されていると考えたほうが自然である。ところで、西田幾多郎という哲学者は、一体何をその主題とした哲学者なのであろうか。西洋哲学と東洋哲学(禅など)の融合、「場所的論理」、「絶対無」、「絶対矛盾的自己同一」といった概念を発明した人物、存在論と認識論を一元論的な立場から根本的に問い直した思想家、等々。西田の全貌を述べるのは不可能なため、本論に即して部分的に強調しておきたいことを言うならば、実在論者としての西田、という側面に、着目したいのである。この点は、西田の最初の著作である『善の研究』(1911年)は、既に知られているとおり、当初は『純粋経験と実在』という書名で刊行することを、著者である西田は望んでいたが、出版元の理解が得られず、現行の書名で刊行されれることになったという経緯がある。西田の著書の実在とは、ウィリアム・ジェイムズやアンリ・ベルクソンから着想を得た、主客が未分明のままにある、直接的な経験を「純粋経験」と呼ぶわけだが、そうした無媒介的な「純粋経験」によってはじめて、実在が把握できるという、実在論の立場を取るものである。そして、『善の研究』は主客を合一したそうした経験において、いかに「善」や「宗教」といった倫理を基礎づけることができるのか、ということを問うた著作である、と、ひとまずは要約することができよう。西田のこの「実在論」は、通常の訳語のとおり、「リアリズム」であると考えるのが順当である。それゆえに、西田のこのリアリズムとは、素朴リアリズムを主張するものでは一切なく、むしろ観念論的なものである。1917年に刊行された、西田の『自覺に於ける直觀と反省』は、『善の研究』における「純粋経験と実在」のさらなる深化を目指すものとして記されたものである。高梨友宏の論考によれば、その梗概は次のようなものだ。「知るものと知られるものがともに自己として同一である「自覚」において、相対立する直観と反省の統一を図り、実在の真相を「絶対自由の意志」を本質とする自覚的自己に措く。「経験的自己」を― 497 ―― 497 ―
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