①後世に伝える機能②遠隔地に伝える機能③教育・学習のための機能、創作の源泉に分類できるという(注14)。関紫蘭の場合には、中川の作品を臨模することで、自らが師事した日本の画家の作品を手元に保管すること、そして中川の表現を学習することが目的であっただろう。それでは、関紫蘭は具体的に中川紀元のどのような表現手法を学んだのだろうか。ここで関紫蘭の《自画像》における女性の顔貌表現と、本作より前に関紫蘭が制作した《幽閒》《秋水伊人》《少女像》の顔貌表現と比較してみよう。《幽閒》《秋水伊人》《少女像》に描かれたモデルの正体は不明だが、特定の女性の顔の個性を描出しようとする態度は感じられない。モデルの顔の特徴を人物が特定できるように再現的に描くことよりも、丁衍庸が《青春》で用いた簡略化した目・鼻・口の表現を、関紫蘭が一つの様式として学び取り、《幽閒》《秋水伊人》《少女像》などの女性像を描く際に繰り返し用いていたようにみえる。その結果、これらの3点では一様に端正な顔立ちで甘美な表情をたたえる女性が表出されている。それに対して、関紫蘭は中川のモデルを務めたことで、中川が自らの顔を観察し、絵画化するプロセスを直に体験し、中川が目の周りの化粧や鼻の形を絵筆で誇張して描く手法を観察したのである。そして、中川が描いた《緑衣》を見ながら、それをなぞるようにして《自画像》を描くことによって、関紫蘭は中川による顔貌のデフォルメ表現を練習した。この一連のプロセスを通して、関紫蘭はかつて丁衍庸から学んだ女性像における目や鼻、口の描き方とは異なる手法で顔を表現する技術を獲得することができたのである。つまり、中川の《緑衣》を臨模する行為は、関紫蘭にとって、かつて非難されることもあった丁衍庸の女性像の模倣を脱却し、従来の甘美な表情をたたえる女性像とは異なる新しい顔貌表現を獲得するための一つの試みであったとみることができる。中川が関紫蘭をモデルに《緑衣》を制作した時期は、ちょうど彼女が上海で個展を開くために準備をしていた時期にあたる(注15)。この個展に出品され、個展目録の表紙を飾ったのが《少女》〔図15〕という作品であった。本作では、白を基調に黒の曲線の模様があしらわれた七分袖のチャイナドレスを着たボブの髪型の女性がモデルである。モデルの傍には、中川と同じように花を生けたイパーンと台、橙色の椅子が描かれている。当時、関紫蘭は長髪であったため、ボブの女性は彼女ではない。つまり、関紫蘭は中川の《緑衣》と同じセッティングをつくり、その中にボブの女性を配置して《少女》を描いたのである。この作品を描いた関紫蘭の意図とは何であったのだろうか。ここで《少女》のモデルの顔貌表現に注目すると、目の下にくまはなく、瞳や目の― 39 ―― 39 ―
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