鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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支える「一般的自己」とも称されることの自覚的自己は「反省を超越して却って反省を成立せしめ」、そのことによって一切の経験内容を能動的に、活動的状態において捉え、統一する」(注8)と。西田のこの著作は、先の須田の、京都帝大在籍時の回想において、西田の授業において教科書として読んだと記されている、その当の書物である。では須田は、どのように西田のこの著作を読んだのだろうか。先に挙げた、京大大学院文学研究科図書館に収められている「須田文庫」は、須田の蔵書が京大に遺贈されたものである。瞥見した限りではあるが、本文庫に収蔵されている書籍を見る限り、須田は多くの書き込みをしながら、書籍を読む性格ではなかったのか、あるいは書き込みの多いものは遺贈を控えたのか、その点は不明であるが、どの書物を見ても、丁寧に扱われたであろうことが見て取れる。フィードラーの著作については、彼の芸術論集が3冊ほど収められているが、全ページに目を通した限り、目立った書き込みは存在しなかった。一方、生前に書物を残さなかった須田の師である深田はともかく、西田の著作は数冊この文庫に収められており、中には先述の『自覺に於ける直觀と反省』もある。残念ながら、こちらには書き込みが一切ないのだが、同年に刊行された西田の『現代に於ける理想主義の哲學』も所蔵されており、そこには繊細な鉛筆書きで、線引きが数カ所残されている。この著作は、『自覺に於ける~』のダイナミックな記述を、「理想主義=観念論=idealism」の、近世以降の西洋哲学史上の系譜を丁寧にたどっていくという内容になっており、『自覺に於ける~』と相互補完的な関係にあると言ってよいと思われる。では、どのような記述のところに線が引かれているのか、次に例を示してみる(注9)。 外界に実在があるということよりも、実在があると考えねばならないということの方が一層根本的事実である。(10頁) 我々の認識に於ては未だ形式化せられない直接経験の世界と、既に概念にせられた認識の世界とが対立する。(51頁)これら傍線が、本当に須田自身によって引かれたのかどうか、そして、いつ引かれたのか、刊行直後に引かれたのか、あるいは刊行からずっと経過して、事後的に引かれたのかを検証する術は残念ながら無い。けれども、『善の研究』から引き継ぐ、観念論的なリアリズムを純粋経験=直接経験として把握するということを、まさに述べている箇所に傍線が引かれているのは、極めて示唆的である。この書物は、17世紀のラ― 498 ―― 498 ―

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