イプニッツあたりを起点として、当時としては同時代と言ってもよいであろう新カント学派やフッサールの現象学まで、論述が続くことになるのだが、本書末の「講余解説」と称するセクションには、あまりその存在が知られていない思想家を扱う際の補足的解説として、学術雑誌において既発表であるコーエン、ポルツァーノ、そしてフィードラー、それぞれについて論じたセクションが添付されており、フィードラーについての西田の概説の箇所には、抜き書きすると膨大な量になる傍線が引いてある。つまり、ここから何が言えるかというと、須田の卒業論文である「写実主義」が書かれた1916年の段階では、時系列的に以上に示した傍線が引かれるはずはないものの、西田の「リアリズム」についての考え方を卒業論文執筆以前に、須田はかなりの程度把握しており、かつかなり本格的にシンパシーを抱いていて、それを自らの絵画に対する関心に引き付けようとしていた可能性が高い、ということだ。端的に言えば、西田と須田とのリアリズム理解は、似ているわけである。このような観念論的実リアリズム在論は、既に須田の卒業論文の段階において胚胎していたものではあるが、そうした思想が絵画制作の実践を継続していく過程において、中途で放棄されたわけではないことを示すために、1942年に書かれた、須田による下記のようなテキストを引いておくと、どうだろうか。 固有色は常に全体的である。現象的な色彩は固有色の部分変化であり、その変相である。印象派者は固有色を認めぬというが、実は認めないわけにはゆかぬのである。これを認めずして、変化はあり得ないからである。固有色は、物の色のイデーとして、永劫に健在するものといわねばならない。(注10)つまり、一般的な経験論として言えば、固有色は変モドレ化するわけであり、印象主義の場合、色彩の視覚現象に合わせて、逆に言えば対象の固有色に拘らず、画面を組織するということになるが、観イデア念上においてはトータルなものとして実在するのだ、という論理構成になる。こうした考え方自体、須田が西田の哲学から引き継いだものであると考えてみたいところだが、深田からはこうした論理を引き出すことはできないし、同時に、同時代の須田の周囲の洋画家たちから、こうした観念論的なリアリズムを導くことは困難だと思うがゆえに、須田の特異な論理展開の源流を、西田に認めざるを得ない、ということだ。そして、須田の卒業論文において、同時に西田も自説を展開する補助線として引き合いに出す、フィードラーの存在が、この直接の師弟ではないものの、影響を与える誘因になったのではないかと思われるのだ。西田は、フィード― 499 ―― 499 ―
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