えば木材や大理石などで作られた建築的要素を有する枠だったのではないだろうか。そうだとすれば、17世紀、漆喰を塗り直して新しい板を支持体とする祭壇画を導入する際、物理的な枠は突起物として妨げになるため取り払われ、現在のように建築的枠組みの部分が完全に喪失してしまった、という可能性が考えられる。1400年代後半、実際にフレスコ画に物理的な建築的枠組みを適用した例はあるのか。この問いに対する回答として想起されるのは、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会内のフィリッピーノ・リッピによるカラファ礼拝堂の祭壇装飾(1489-1493年)〔図7〕である(注11)。そこでは、フレスコ画の《受胎告知とオリヴィエロ・カラファ枢機卿、聖トマス・アクィナス》が、付け柱、柱頭、エンタブラチュアからなる大理石の額に囲まれ、あたかも板絵のように存在している。その上方には、描かれた半円アーチの下に《聖母被昇天》が表されている。ギルランダイオのオーニッサンティのフレスコ画〔図6〕では、諸場面はそれぞれの区画内で完結しており、《慈悲の聖母》はルネッタとして独立して上部に配されている。それに対して、フィリッピーノのカラファ礼拝堂のフレスコ画では、祭壇画の背景には一つの無窮の空間の広がりが提示されており、《聖母被昇天》は半円アーチの下に描かれながらも、もはやルネッタとして独立していない。3.板絵の祭壇画とフレスコ画のルネッタからなる祭壇装飾カラファ礼拝堂では、祭壇画は板絵に見立てられたフレスコ画だったが、実際に、上部に半円アーチあるいはルネッタを冠する壁面をフレスコ画で装飾し、そこに四角形の板絵の祭壇画を設置する、という構造の祭壇装飾は、ブルネッレスキによっていち早く建築分野にルネサンスの波が押し寄せたフィレンツェおよびその近郊に散見される。カラファ礼拝堂の祭壇構造は、そのようなフィレンツェの先例に倣ったものといえよう。半円アーチを冠する壁に描かれたフレスコ画と板絵の祭壇画の組み合わせの最も有名な例は、フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ教会の左側廊に位置するポルトガル枢機卿の礼拝堂の祭壇装飾〔図8〕だろう。そこでは、古代風の額に収められた板絵の祭壇画《聖ウィンケンティウス、使徒聖ヤコブ、聖エウスタキウス》(注12)の周囲にフレスコ画が描かれている。壁上方の半円アーチの下では、明り採りの円窓を挟んで宙に浮く二人の天使が、アーチに沿って取り付けられた真紅の幕を端に引き寄せ、隠されていた祭壇画を露わにしている。この祭壇側の絵画装飾、すなわち、フレスコ画および板絵は、1466-1467年頃、どちらもアントニオとピエロのポッライオーロ兄弟によって手がけられており(注13)、祭壇画とその周囲のフレ― 504 ―― 504 ―
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