結まわりに白や灰色の絵の具をゆらぎのある線で描くことで、涙ぐんでいるかのようなうるんだ目が描出されている。また、白い衣装と組み合わせることでモデルの肌の白さを一層際立たせている。つまり《少女》において、関紫蘭は中川の《緑衣》における顔貌のデフォルメ表現を一つの様式としてそのまま用いるのではなく、眼前のモデルの潤んだ瞳や白粉を塗った顔を観察し、その特徴を絵の中で表現しようとしたのである。その結果、前年の1929年に描かれたモデルの容姿の美しさが強調された《少女像》とは対照的に、《少女》では両目を見開き、驚きや悲しみ、気だるさといった複雑な雰囲気を醸し出す女性が描出されているのである。関紫蘭は中川の《緑衣》のモデルをつとめ、それを臨模して《自画像》を描く過程で、中川による人物の顔の特徴の抽出と誇張という人物の観察眼と表現手法の両方を学び取り、自らの制作において実践したのだとみることができる。ここまで、中川紀元との関係から関紫蘭の《少女》の表現の特徴を指摘したが、本作には関紫蘭の線の表現に対する意識も確認できる。中川の《緑衣》では薄緑の絵の具でモデルの衣装が均一に塗られているのに対して、関紫蘭の《少女》では衣装のシルエットと模様が様々な形をもつ線で表現されており、モデルの胸や腕、肩の丸みやボリューム感を巧みに描き出している。ここに、関紫蘭が丁衍庸に師事していた1920年代に追求していた線の表現における成熟が指摘できよう。上海のメディアから大きく報じられ関紫蘭の知名度を高めることとなった個展に出品された《少女》は、丁衍庸と中川紀元という日中の洋画家から学んだ線の表現とモデルの個性を描出する顔貌表現が融合した作品であり、関紫蘭が受けた洋画教育を総括した作品であったのだ。ここまで、丁衍庸と中川紀元との師弟関係に照らして、関紫蘭が1920年代から1930年までに描いた女性像を分析してきた。関紫蘭と丁衍庸の師弟関係については、彼女が1927年まで通った神州女学校と中華藝術大学で築かれたものであり、その間に関紫蘭は丁衍庸による女性像の顔貌表現や線の表現を学んだ。関紫蘭が師事していた時期の丁衍庸は、日本留学期に実見したマティスの作品における線の表現に感銘を受け、単純な線でもっていかに深い内容を表現し得るのかを模索していた。その丁衍庸に師事したことで、1920年代後半の関紫蘭は女性モデルの身体の輪郭線を描くことから始め、徐々に身体の立体感や量感も表現できるように技術を向上させた。その線の表現の成熟が確認できるのが、1929年に制作された《少女像》である。一方で、当時上海で開かれた展覧会で関紫蘭の女性像を見た観衆の中には、著名な― 40 ―― 40 ―
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