鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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に作品の編年を検討し、豊春の絵画様式の特性と展開について、新出の絵画作品も踏まえて考察を試みたい。1、安永期(1772~81) 豊春38歳~47歳豊春の画業が版画から肉筆浮世絵に完全に移行したと考えられるのは、天明期(1781~89)以後である。これは光琳画に傾倒する以前の酒井抱一(1761-1829)の天明期の肉筆美人画で、明らかに豊春の美人画に学んだ一連の作品の存在もあり、豊春が天明期に肉筆美人画を描いたことは確かといえる。例えば、酒井抱一の《松風村雨図》(細見美術館)は、天明5年(1785)の年記があり、色彩を抑制したいわゆる「紅嫌い」の肉筆美人画であるが、細かな異同はあるものの、美人の嫋やかな姿態や顔貌の表現は、豊春の同題作を明らかに下敷きとしていることが夙に知られている。両者の絵画作品以外に、豊春と抱一の関係を示す資料はないが、豊春が吉原サロンの常連となっていた若き抱一と出会い、何らかの絵画指導をおこなっていたと推測されている(注2)。天明期の豊春が、肉筆画の制作に本格的に取り組んでいることは明らかであるが、豊春の肉筆浮世絵の制作は、突如として天明期に始まったわけではなく、それよりも以前の安永期(1772~81)に始動したと考えられる。その最初期の肉筆画と目されるのが《邸内遊楽図》(板橋区立美術館no.1)〔図1〕である。拳に興じる芸者を中心に、邸内の宴の様子が、吹抜き屋台風に俯瞰して描かれている。美人はいずれも小柄で、上品な微笑を湛える少女のように可憐な相貌が見て取れ、明和期に流行した鈴木春信(?-1770)風の美人様式の影響下にあることがわかる。大久保純一氏は、本図のいまだ春信風の美人様式から脱しきれていない点や、落款書体から安永(1772~81)初期の作と推定されているが(注3)、筆者も同意見である。署名の「哥川豊春筆」〔図2〕の「哥」は版画作品の署名に使用されるもので、肉筆画では管見の限り本図を含めて2例を知るのみで、もう1例はフリーア美術館にある同工異曲の《邸内遊楽図》(no.2)の画中画の隠し落款の署名である。豊春は、安永後期まで「新版浮絵」シリーズや「浮絵和国景夕」シリーズの版画制作に取り組んでいるため、ちょうど版画と肉筆画の双方の制作が並行しておこなわれていた頃の署名形式を示すものと考えられる。印章は「昌樹」(朱文方印)であるが、この印章は管見の限り本図を含めて5例を知ることができ、いずれも豊春の肉筆画の最初期の用印を示すものと考えられる。中でも様式的な特徴から、同じく安永期の作例と判断されるのが《正月の娘と子供》(ボ― 513 ―― 513 ―

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