ストン美術館no.3)〔図3〕である。着物の裾から顔を出し、幼い乳呑み児をあやす腕白な童子と、その様子に微笑みを投げかける振袖姿の娘が、新春の一場面として描かれている。内藤正人氏は、本図について「丸みのあるふくよかな顔立ちが明らかな安永調を示して」いるとして、安永中・後期の作例と推測している(注4)。安永期(1772~81)に入った浮世絵画壇では、それまでの華奢で夢幻的な春信風の美人様式とは異なり、礒田湖龍斎(1735-?)に代表されるような、より長身で肉付きの良い現実的な美人像が主流となることが知られる。豊春が描く本図の美人像は、《邸内遊楽図》の春信風の美人とは異なり、次代の礒田風の丸くふくよかな安永期の美人様式に傾倒した跡を示すものであろう。内藤氏の指摘するとおり、本図は安永中・後期の作例と考えられる。これら安永期の制作と考えられる作品と同じ印章「昌樹」(朱文方印)が捺された《美人四季之粧》(ロシア国立東洋美術館no.4)や《桜花花魁と禿図》(太田記念美術館no.6)についても、同じく豊春の肉筆美人画の初期の基準作と考えられる。前者は面長な顔貌表現への移行を示すも体躯はふくよかな安永調といえる。後者も面長の顔貌であるが細身長身の体躯には、天明期に八頭身の健康的な美人様式を生み出した鳥居清長風の影響も見て取れる。制作期はいずれも安永(1772~81)末期~天明(1781~89)初期を想定しておきたい。2、天明期(1781~89) 豊春47歳~55歳天明期は、浮世絵の黄金期の始まりであり、錦絵の隆盛のみならず、肉筆画においても多士済々の個性的な浮世絵師たちの作品が生み出された。勝川春章(1726-92)や北尾重政(1739-1820)、鳥居清長(1752-1815)といった実力派の絵師たちと競い合うように、壮年期の豊春も、この天明期に多くの肉筆美人画を描いている。前項でふれた《桜花花魁と禿図》(太田記念美術館no.6)には、安永期のふくよかな磯田風を脱した面長で健康的な長身美人像への移行が示されているが、天明期の豊春の肉筆美人画は、こうした傾向を踏襲しつつ展開している。天明初期の作例と目される《桜花花魁道中図》(太田記念美術館no.10)〔図4〕や、今回の調査で新出した《松風村雨図》(個人蔵no.12)〔図5〕には、発色のよい上質の顔料が使用され、美人が纏う着物の赤を基調にしながらも、緑青、群青、藍、胡粉、黒といった多色をバランスよく配色して、晩年の作風にまで通底する豊春らしい落ち着いた優艶な画面を作っている。落款形式にも変化が見られ、署名には「一龍齋歌川豐春畫」(no.12)〔図6〕と“一― 514 ―― 514 ―
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