たせ、迫真性を増す効果を生んでいる。署名は「東都日本画/一龍斎歌川豐春圖畫」〔図10〕、印章は「模古」(朱文方印)と「一龍斎豊春」(白文方印)である。小林忠氏が紹介した縦161.5cmに及ぶ大画面の《遊女立姿図》(ニュー・サウス・ウェールズ美術館no.24)は、本図と同じ印章が捺された現存唯一の作例であり、印章のみならず署名や寸法、立美人の様式が対幅のように近似した関係にある(注7)。しかし豊春が本図のような等身大に近いサイズのリアリティ溢れる美人像を描いた経緯とはどのようなものだったのだろうか。この遊女を寵愛した有力なパトロンからの特注だった可能性は高いが、豊春が得意とした浮絵にも発揮されていた、人々を驚かせる迫真性や写実性を求めてやまない科学的、合理的な精神の所産だったとも思えてならない。他にも、前述の2例ほどの大きさではないが、近似する様式の大幅の女性像を描いている。《遊女後姿図》(フリーア美術館no.21)、《遊女と禿図》(フリーア美術館no.22)、《桜花遊女と禿図》(ロジャー・ウェストン・コレクションno.23)などである。印章はいずれも「哥川」(白文鼎印)と大型の「昌樹之印」(白文方印)である。3、寛政期(1789~1801) 豊春55歳~67歳浮世絵黄金期の後半ともいえる寛政期には、美人画の喜多川歌麿(?-1806)、役者絵の東洲斎写楽(生没年未詳)が活躍し、浮世絵における人物表現が一つのピークに達した時期ともいえる。歌麿は寛政4~5年(1792~93)頃に《婦人相学十躰》や《婦女人相十品》などで無背景の半身美人像を発表した。女性の表情をクローズアップすることで、個性や感情の表出に新機軸を打ち出している。当該期の豊春は、円熟期から晩年期へさしかかる時期である。天明期に描かれたと推定される大画面美人像に見て取れた闊達な画風は継続されることはなく、むしろ均整のとれた端正な美人表現を洗練させていく方向に進んでいったようだ。寛政期の群像表現の作例として《観梅図》(大分県立美術館no.37)〔図11〕をあげる。春先の屋外で、観梅に興じようと行楽に出てきた多様な人々を描いている。老梅樹を背景に9人の人物が描かれている。煙管をもつ粋な女性や、武士の姿態は、《向島行楽図》(ボストン美術館no.20)中にみえる同様の人物と近似している。人物描写は緻密に丁寧に描かれており、例えば中央で扇を手にした美人は、裕福な良家の婦人といった風情で、黒い着物にあしらわれた桐紋様や、帯にみられる紗綾形紋様や水車紋様にも神経の行き届いた緻密な描写が見て取れる。全体を見渡しても、色とりどりの人物表現は、― 516 ―― 516 ―
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