鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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洋画家丁衍庸の神髄を受け継いだと彼女を評価する人がいた一方で、剽窃ではないかと批判する人もいた。中華藝術大学の卒業をきっかけに、関紫蘭自身も学生時代のように丁衍庸の画風を取り入れるだけではなく、新しい表現を模索していただろう。日本への留学をきっかけに交流を深めた中川紀元とは、1930年に交流し彼のモデルをつとめ、その絵画制作のプロセスを直に観察することができた。その後に関紫蘭が中川の《緑衣》を臨模した《自画像》と、中川と同じセッティングに別のモデルを配置して描いた《少女》からは、彼女が中川の人物の顔の特徴や個性を見抜き、それを誇張して描く手法を学んだことが分かる。《少女》は、1920年代に関紫蘭が丁衍庸から学んだ女性の容姿の美しさを表した顔貌表現とは異なり、モデルの容姿の個性や複雑多様な心情を描出した作品である。そこには、丁衍庸から学んだ線の表現によってモデルの身体や衣装を生き生きと表現する技術と、中川から学んだ人物の見方とデフォルメ表現の両方の学習の成果が結実している。この《少女》を上海で注目を集めた個展に出品し、個展の目録の表紙にも掲載することで、関紫蘭は日中の洋画家から学び取った技術を高らかに誇示したのである。最後に、近代における日本と中国の美術交流の中に関紫蘭の作品を位置づけたい。中国の洋画家にとって日本はフランスの最先端の絵画を学ぶための留学先であったと同時に、中国よりもいち早く洋画の受容が進んだ模範とすべき対象でもあった。日本留学を契機にマティスの作品を線の表現という観点から丁衍庸が評価、受容し、その理念をさらに関紫蘭が受け継いだことを本稿で明らかにした。それによって先行研究で指摘されたような中国の伝統絵画で重視された線の表現に結び付けてマティスら後期印象派の画家が日中画家によって受容された文脈の中に関紫蘭の女性像を位置づけることができるだろう(注16)。一方で日本の洋画家の側から日中美術交流を眺めるならば、中国趣味の中で藤島武二を初め洋画界の重鎮が「中国服の女性像」という主題を好んで描き、大正・昭和期の日本洋画壇における一つの潮流をつくった(注17)。その潮流の中で、中川紀元は中国を旅し中国人の関紫蘭をモデルに制作したのである。そのため中川の《緑衣》は日本人による中国趣味の延長に位置づけられるものだが、関紫蘭を主体として中川との交流をみたときに、彼女はモデルという受動的な存在を超えて、中川の制作プロセスを直に経験することで、彼の制作のエッセンスを吸収し、自らの作画に活かしたのである。関紫蘭が女性像を描く上で、国境を越えた複数のルートから人物の観察手法や表現手法を柔軟に吸収し、自らの女性像を構築していった軌跡は、日本と中国の洋画家が師弟関係や制作のプロセスを共有することで、人物画の技法を伝えていった近代美術の一つの歴史を照らし出すものである。― 41 ―― 41 ―

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