描かれており、豊春の円熟した技量を伝える上製品である(注9)。三幅対の中幅の美人の結髪風俗が、寛政後期に流行した立兵庫の髷で描かれていることからも制作期はその頃であろう。また同印章が捺される《夕涼み図》(MOA美術館no.47)〔図15〕は、柳樹のもとで童子を連れた二美人が憩う情景が描かれた作品である。大久保純一氏は、細身で繊細な美人様式、寛政後期以降とされる髱の大きくなった髪型の特徴などからして、本作品の制作期を享和(1801~04)から文化(1804~18)初期頃という豊春70歳代前後の晩年期の作例と推定している(注10)。顔貌の丸みが取り払われてやや鋭角的となり、細身のプロポーションに加えて衣文線もやや硬質化する傾向が見てとれる。鳥文斎栄之(1756-1829)や葛飾北斎(1760-1849)に代表されるように、文化期にはより長身かつ華奢なプロポーションで、さっぱりとした怜悧な印象を与える面持ちの美人様式が確立される。豊春の最晩年の美人様式も、そうした時代様式に少なからず影響を受けていることがうかがわれる。しかし豊春のすぐれた色感による落ち着いた配色や背景描写を含めた安定した構図によって、穏やかで清らかな印象が表出されている点は面目躍如といったところであろう。まとめ以上、豊春の肉筆浮世絵の美人様式に考察を加え、落款形式にも注目しながら、時代区分による編年検討を試みた。豊春は、版画制作と並行して、安永期には肉筆浮世絵を描きはじめていると考えられ、春信風の影響から脱しきれていない安永初期の作例から、ふくよかな礒田風の安永調の美人様式へ移行し、天明期に入ると清長風の影響なども受けながらも、優美で穏やかな美人様式を確立している。また天明期には、大画面に闊達な筆描でリアリティ溢れる美人像を描き出すこともあったが、寛政期に入ると、瀟洒な画風に傾倒し、長身痩躯を志向しながらも、過度にそれを強調せず、端正でバランスのとれたプロポーションの美人様式を追求し、洗練度を深めていったようである。豊春の肉筆浮世絵は、時代ごとの流行を受けて変化しながらも、常に大らかで、清々しく、雅びで気品を備えた女性像を一貫して描き出したところに深い魅力があると感じる。酒井家などの上層武家にまでに及ぶ有力な支持者を獲得できたのも、作品を包む気宇の大きさと、そこに込められた典雅な情趣が相俟って成立する豊春画の美質への賛同者が大勢いたことの証であろう。小林忠氏、大久保純一氏、内藤正人氏、樋口一貴氏らの詳細な先行研究を参考にさせていただいたことを記しておきたい。― 518 ―― 518 ―
元のページ ../index.html#530