鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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⑨堀内正和の1957年サンパウロ・ビエンナーレ出品作品にみる国際的同時代性の研究研 究 者:神奈川県立近代美術館 学芸員  菊 川 亜 騎日本で抽象彫刻が隆盛するのは主に1950年代前半からのことである。もちろん戦前にも作例はあったが、第二次世界大戦によりその実践が中断されたために通時的に研究することは難しく、学術的検証が遅れてきた。近年、田中修二『近代日本彫刻史』(国書刊行会、2017年)などでも戦時中から戦後直後の作家の動きが検証されつつあるが、こと抽象表現に関しての作家や展覧会に対する踏み込んだ検証は十分でない。1950年代前半は、日本が占領期を終え独立国家として社会に再び参加し政治・文化の国際化が急速に目指された時期である。美術の領域におけるその象徴的な出来事は、サンパウロ・ビエンナーレやヴェネチア・ビエンナーレといった国際展への参加であった。展覧会とは作家、美術館、批評家などの関係性や様々な要因によって成立するものであるが、ビエンナーレの開催の背景を仔細に検証することから、文化の政治的背景を読み解く試みが欧米圏で進んでいる。日本では1950年代半ばにはビエンナーレにも国際言語をもった表現として半抽象や抽象の彫刻が出品されるようになるが、その背景には1951年に開館した近代美術館を中心に抽象彫刻が認められていった経緯があった。そのため、抽象彫刻の隆盛を再検討するためには、国際的動向を視野に入れ批評そのものの問題として捉えなおす必要がある。日本として初めての国際展参加となったのが1951年の第1回サンパウロ・ビエンナーレである。ヴェネチア・ビエンナーレをモデルにして企画され、モダンアートの歴史を持たない新興国で各国がどのような表現を見せるか、西欧美術を新たな視点から見ることのできるビエンナーレとして注目を集めた。そして1957年に開かれた第4回展(1957年9月22日-12月30日)は、新たに建設された巨大な会場の柿落としとしても注目を集め、43カ国が参加した大規模な展示はその内容としても対立する抽象表現の国際的流行を象徴的に見せたものとなった。本稿では第4回展の特徴を整理するとともに、日本作家の選考背景を振り返り、出品作家の一人である彫刻家・堀内正和に注目したい。終戦後、堀内は1954年から10年にわたり独自の演繹的プログラムに沿って展開された、点・線・面の造形要素からなる構成彫刻に取り組んだ。ビエンナーレには1950年代を代表する作品が出品されたが、本稿では本品の国際展における位置付けについて再考する。― 523 ―― 523 ―

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