1、サンパウロ・ビエンナーレについてはじめに、サンパウロ・ビエンナーレについて簡単に整理しておこう(注1)。サンパウロ・ビエンナーレは、1951年に始まり、ヴェネツィアに次いで世界で二番目に長い歴史を持つビエンナーレである。文化事業の開催背景には、1940-1950年代ブラジルの政治状況が大きく関与している。ブラジルは第二次世界大戦には当初イタリア、ドイツ軍に参加していたが、アメリカ合衆国が連合国軍に参入したことを契機に終戦間際に連合国軍に参加し、先勝国として終戦を迎えた。1956年には計画都市の首都ブラジリアの建設が進み、ユルバニズムを体現した新しい都市の実現にむけて邁進することとなる。とりわけ終戦前後で大きく変化したのはアメリカとの関係である。元々ポルトガルやイタリア系移民の文化で構成されていた国であるが、終戦後は政治のみならず文化面でも大きくアメリカの影響を受けることとなった。サンパウロ・ビエンナーレはブラジル国内に現代美術の動向を紹介し、同地を国際的な美術の中心地とする目的で、イタリアを出自とする実業家チッチロ・フランシスコ・マタラッゾ・ソブリンホによって創設されたものである。第二次世界大戦が終結するとブラジルでは文化事業の設営が次々と進められ、1947年と1948年にはリオデジャネイロ近代美術館とサンパウロ近代美術館が立て続けに開館した。いずれもロックフェラー家とニューヨーク近代美術館の援助を受けたものであったが、とりわけ最大の経済都市であるサンパウロでは、マタラッゾの肝煎りで美術館もニューヨーク近代美術館をモデルに建設された。ブラジルを代表する建築家オスカー・ニーマイヤーの設計によるイビラプエラ公園は、建築と庭園をして彼の世界観を表現したものであるが、近代美術館とビエンナーレの会場となるパヴィリオン(チッチロ・マタラッゾ・パヴィリオン)もニーマイヤーによって設計され、ブラジルにおけるモダンアートの発信拠点へと成長することとなる。このような世界を意識した文化事業が拡大する一方で、政府と社会主義運動との抗争から1960年代には軍事政権となり、多くの文化人や知識人が亡命に追い込まれた結果、文化の発信力は衰えていった。このように近代美術館の設立とビエンナーレの開催が、公共事業ではなく、アメリカと強く結びついた民間資本が推進したものであったことは重要である。1951年の記念すべき第1回展はサンパウロ近代美術館を会場にして開催された。1953年の第2回展はサンパウロ市400年祭とあわせて開催され、まだスペインに返還される前であったパブロ・ピカソの《ゲルニカ》(1937年)を展示し大きな話題を呼んだ。続く第3回展にはディエゴ・リベラやダヴィッド・シケイロスらの壁画が紹介されるなど、各回特色をもった特別展が開催されたことも特徴的である。ビエンナー― 524 ―― 524 ―
元のページ ../index.html#536