レはすぐに大規模な事業に発展し、第4回からパヴィリオンに会場が移された。特徴的な流線形の回廊を持つ巨大な会場には43カ国が参加し、建築の柿落としを兼ねたビエンナーレに大きな注目が集まったのである(注2)。そして第4回展は、全体として抽象表現主義と幾何学抽象の大きな流れが対峙する場面となった。それを象徴したのはアメリカ代表団による特別展と、本国ブラジルの展示である。では本展がどのようなものであったか、公式カタログ(注3)と展示会場の図面をもとに、主要国の出品作家と企画構成を確認してみたい。2、第4回ビエンナーレ(1957年9月22日-12月30日)パヴィリオンの最大の面積を占め第4回の華を飾ったのは、アメリカ代表団の特別展であった。開催されたのはアメリカを代表する画家ジャクソン・ポロックの個展である。ポロックはビエンナーレの前年に事故死したが、その死は美術界に衝撃を与えるものであった。特別展はポロックの活動初期から晩年のブラック・ペインティングに至るまでを網羅し、とりわけ大型の油彩で構成された大回顧展であった。展覧会の企画を担ったのは、ニューヨーク近代美術館およびその国際評議会(注4)である。総合的なコミッショナーはアルフレッド・ハミルトン・バーJr.が、国際プログラム・ディレクターにポーター・マックレイが担当しており、国際評議会取締役にジョン・デイヴィソン・ロックフェラー3世夫人がいる(注5)。だが展覧会の実質的な運営は、国際プログラムの構成担当であったフランク・オハラが担ったようで、作品の選定から公式図録への解説執筆までを担当している。言うまでもなく、彼らはいずれも冷戦期にアメリカの文化外交を担った主要人物たちであるが、本展もまた、悲劇的な死を遂げたポロックをアメリカ美術の英雄として歴史化しようという戦略があったといえよう。非西欧の国ブラジルで、自由とリベラルを旗印とする抽象表現主義を大々的に表明する機会となったのである。こういった抽象表現主義の大々的な表明の一方、本国ブラジルの作家たちが示したのはむしろ幾何学抽象への傾倒であった。巨大なパヴィリオンに比例して、第4回展ではブラジル代表団の出品数も最大になり、その作家選考からこの頃のブラジル美術の状況を伺い知ることができる。まず特別室では彫刻家ビクター・ブレシェレと画家ラサール・セガルといったいずれも戦前にサンパウロで活躍した具象形モダニストたちの回顧展が行われた。続く一般部門では、中堅から若手作家が紹介されるが、サンソン・フレキソール、リジア・クラーク、エリオ・オイチシカ、リジア・パペなど、いずれも非形象でとりわけ幾何形体への関心を軸とする絵画や彫刻などが展示され― 525 ―― 525 ―
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