た。そもそも、ブラジルで抽象表現が隆盛するのは1940年代に入ってからに限られ、もともとの主流は具象的なリアリズムであった。だが冷戦を背景に抽象美術は左翼思想と結びつき、急速な都市の近代化の中で合理的で主知主義に基づく幾何学抽象が重んじられ、これを体現したコンクレティスム運動(具体主義、Concretism)が文化の近代化を促進したのであった。1951年の第1回サンパウロ・ビエンナーレでマックス・ビルが大規模な回顧展を行い、彫刻部門の大賞を受賞したことはこの傾向をさらに加速させる。表現の客観性のために数学や幾何学を作品制作に取り込み、システマティックな過程を探り出す方法論は多くの作家に参考にされた。さらに、ビルは1953年にバウハウスの精神を継承したウルム造形大学を設立したことから、ブラジルにおいても芸術教育のモデルとしても参照され、結果的に彼の世界的名声は1940年代後半から50年代にかけて最も高まった。もっとも、第4回ビエンナーレの2年後には、クラークやパペがリオデジャネイロにてネオ・コンクレティスム(新具体主義、Neo-Concretism)を宣言し、より直感的な方法で身体や社会との関わりを問う表現へ発展させていくのだが、この時はまだ厳格な形体で構成された具体芸術としての平面作品を発表していたのである。一般部門における非形象の抽象作品への偏重の背後には、ビエンナーレの作家選定には主催者マタラッゾの影響が強く働いていたことから、第4回展の選考をめぐっては国内で大きな論争を呼ぶこととなった。だがビエンナーレ全体を俯瞰してみると、この時ドイツ代表団は特別展としてバウハウス・シアターの作品を展示しており、結果として、1920年代の造形芸術における主知主義的な傾向が、戦後は海を超え世界中に普及し、発展してきた経緯を見ることのできる場となっていた。以上のように、第4回展は、表現主義的あるいは主知主義的な抽象の大きな流れが対峙する場面となっていたことがわかる。3、日本作家の選考では本展に日本はどのように関わったのだろうか。ここで、第4回展に出品した日本作家とその選抜の背景を整理しておこう。サンパウロ・ビエンナーレに日本は1951年の第1回展から参加しており、ヴェネチア・ビエンナーレに先んじて国際展参加の足がかりとした。だが1950年代前半は国際展との関わり方が定まらず、組織的な問題が多発していた。第2回展においても、外務省と国際文化振興会が作品の日本作家出品の要請を受けながらこれを美術界に伝達せず、結局審査も行われないまま内々に作家が選定された。こういった体制の不備について作家たちは大きく反発し、日本美術家連盟から強く追求される事態となった(注6)。このような過去の事例を踏まえ、― 526 ―― 526 ―
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