満ちている。冷たい硬材を使っていても穏やかさのある作品であり、この世代の作家の中で華やかな個性がある。」(注12)今泉が堀内作品について書いた文章は多くない。だがこのような海外向けのカタログにおいて今泉は堀内の作風を積極的にマックス・ビルと結びつけることで、国際的な潮流への意識を強調している点は興味深い。この評を踏まえて、本展に出品された〈Exercise〉連作の背景を改めて整理しておきたい。というのも、ビエンナーレに出品された3点は国際展のために作られた新作ではなく、前年に国立近代美術館で開催された「日本の彫刻上代(埴輪・金銅仏・伎楽面)と現代」展(1956年9月1日-30日)に出品されたものだったからだ。この展示は、埴輪のような日本固有の造形美が現代へいかに引き継がれたかを問うものであった。企画には帝室博物館(現・東京国立博物館)研究員であった野間清六が関わった。1940年代、野間は日本彫刻史の書籍編纂に関わり、『日本彫刻の美』(不二書房、1943年)においては埴輪の簡素な土の造形美を賞賛し、民族主義的な観点から日本独自の彫刻史観を打ち出そうとしていた(注13)。本展はこうした戦中からの問題意識を継承した企画であった。確かに、堀内は野間が戦時中に博物館で行っていた非公開の仁徳陵出土の弥生式埴輪頭部の特別見学にも欠かさず参加し、1950年頃には上代文化への関心を明らかにしている。しかし、実際のところその関心が民族的な意識へのあらわれとして彫刻作品に反映されることは少なく、むしろ幾何学という普遍的な言語を用いることによって純粋抽象を目指すようになった。だが「上代と現代」展では企画者の意図により、日本の伝統的美意識を引き継いだモダニズムの先駆者として位置付けられたといえよう。以上のことから、本作にかかわる一連の展示に関与した今泉が、日本の造形史の延長線上に堀内を据えながら、サンパウロという舞台において国際的な動向に接続しようと試みたといえよう。また、この時の作家選考に関わったと言われているのが、ブラジルの美術批評家マリオ・ペドローザである。ペドローザは、コンクレティズムやネオ・コンクレティズムを理論面で支えた立役者であるが、自国ブラジルにおいて、文化的伝統や抽象的かつ普遍的な芸術と融合しようとする問題に直面していた。国際美術評論家連盟のブラジル代表であったペドローザは、ユネスコの東西交流プログラムの研究助成金を得て1958年8月から半年間にわたり来日し、国立近代美術館に研究員として席を置いて活動した。ペドローザは『現代の眼』(国立近代美術館、1959年1月、2-3頁)に寄稿した論文「伝統と批評の東西」において、日本の美術作家が伝統的な美学を守りなが― 529 ―― 529 ―
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