①西園雅集図の図像展開に関する研究─高久靄厓作品とその類例を中心に─〈1〉「西園雅集図屏風」紙本著色・六曲一双、那須野が原博物館蔵、文政5年(1822)筆〈2〉「西園雅集図」絹本著色、栃木県立博物館蔵、文政10年(1827)筆研 究 者:三井記念美術館 学芸員 藤 原 幹 大はじめに国内で定着した中国人物画題には「飲中八仙歌」や「赤壁賦」をはじめ、特定の中国文学を典拠とするものが散見される。本稿で扱う「西園雅集」もその一つで、北宋の蘇軾が当代の文人15名と清談した故事に基づく。雅会の様子は李公麟によって描かれ、その絵画について米芾が記した「西園雅集図記」を典拠として、東アジア全体で受容された(注1)。国内ではしばしば東晋の王羲之の雅集に基づく「蘭亭曲水」と対置され、江戸時代後期に盛行した書画会や書画展観が両画題に擬される例も確認される(注2)。これらから、「文人雅集の理想」として当時の文人画・文人趣味流行において重要な位置を占めていたことが窺えるだろう。しかし、こうした歴史的経緯に反して国内で描かれた西園雅集図に関する研究は少なく(注3)、蘭亭曲水図研究において、蘭亭図の発展過程で取り込まれた文人雅集図像の一つとして副次的に言及されることが多い。こうした状況を踏まえ、本稿では国内における西園雅集図像の展開・変容の一様相を、高久靄厓(1796-1843)をはじめとする江戸時代中後期の画家の作例を基に示す。さらに、靄厓による代表的な西園雅集図の作例を2点挙げ、作品間にみられる人物描写や構図の差異が、当時の受容者に期待された「西園雅集図記」への忠実性に起因することを明らかにする。一、靄厓本について高久靄厓は下野に生まれ、鹿沼・江戸で活動した江戸時代後期の文人画家である。谷文晁をはじめ複数の画家に師事したほか、池大雅に私淑したことが作風から知られる(注4)。柔らかな筆致で描かれた墨画主体の作品が多く、本稿で挙げるような著色画はさほど多くない。現存する靄厓筆の西園雅集図は以下の5点が確認できる(注5)。― 543 ―― 543 ―3.2018年度助成
元のページ ../index.html#555