なく、先行作例に基づく可能性が高いことを示唆している。たとえば、画面下部で天秤棒を担ぐ人物や、右手で衣を引き上げながら茶を飲む人物は「図記」に見えないが、東苑・夙夜双方がほぼ同じ姿態で描きこんでいる。くわえて、蘇軾の背後で巻物と芭蕉扇を持つ女性の動作も「図記」には指定されないが、二作品で共通する。典拠を正確に絵画化することで似通った図像が生まれたというより、それぞれの画家が同系統の図像を参照した結果とみるべきだろう。次に靄厓B本と同じく、天保5年(1834)に描かれた福田半香(1804-64)の作品〔図11〕(個人蔵)が挙げられる。半香本の構図は比較的東苑本に近く、画面右上の滝が流れる山塊の表現など、モチーフも部分的に近似する。ただし、樹石や人物をはじめとする細部の描写には夙夜本に近い要素も含まれ、東苑から半香という単純な図式では解釈できない。夙夜と同様、主に京で活動した画家の作品にも、部分的な近似が看取される。岸連山(1804-59)が天保9年(1838)に描いた「西園雅集図」(福井・永平寺蔵)における李公麟周辺の人物描写〔図12〕を夙夜本〔図5〕と比較すると、明らかに夙夜本系統の図像を改変したものと知られる。芭蕉扇を持つ黄庭堅の位置が異なるが、左端で背を向けて巻を広げる蘇轍や、正対する李公麟と鄭嘉会、右端で机上に肘をつく張耒の表現など、いずれも夙夜本のそれと似通っている。最後に挙げるのは、嘉永2年(1848)の伊豆原麻谷(1778-1860)「青緑西園雅集図」〔図13〕(愛知県陶磁美術館蔵)である。古檜の下で阮咸を弾く陳景元らの位置が異なるほか、個別の人物表現にも異同が複数含まれるが、基本的な構図は一連の作品群と共通する。米芾が揮毫する巨岩も、夙夜本と同様、長方形を重ねた形状を基調とした上で、さらにそれを複雑化させた形態を示す。このように、1700年代末から1800年代半ばにかけて図像系統的にきわめて近い西園雅集図が、京・尾張・江戸と離れた地域で描かれていたことが確認される。複数の画家が似通った西園雅集図を描くことは珍しくないが(注13)、これらの作品群における近似性は特定の師系・地域に限定されない点が興味深い。四、靄厓本と典拠次に、靄厓A本とB本の比較によって、本画題における靄厓の作画意識の変化を指摘したい。結論から述べると、靄厓A本・B本間における構図や人物表現の差異は「図記」への忠実性と密接な関係にある。すなわち、A本にみられた「図記」と合致しない表現― 546 ―― 546 ―
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