が、B本では逐語的な絵画化になるよう、いずれも描き改められた可能性が高い。まず、画面構成の相違点とも関わるが、A本では合一していた蘇轍・黄庭堅らと、李公麟らのグループとがB本では分離している点が挙げられる〔図14〕。この変化については蘇轍に関する「図記」の記述に注目したい。当該部分には「右手は石に倚り、左手は巻を執りて書を観る」とあり、両作品ともに左右の手の動作は典拠に則っている。ところがA本〔図6〕では、蘇轍の視線は李公麟の描く絵に向けられ、「書を観る」との記述に反する。一方B本〔図14〕では、蘇轍らのグループと李公麟らのグループとを分離したことで、手元の書を読む姿として蘇轍を描くことに成功している(注14)。また「手を袖にして側聴」する秦観は、A本では両手を袖から出して描かれるが〔図15〕、B本では同じ体勢のまま、両手を袖に入れた姿へと改められている〔図16〕。米芾と王欽臣らの場面では、傍に控える童子の姿に注目したい。A本では硯を腰に近い位置で持つのに対し、B本では「古硯を捧じて而立」との記述を反映し、頭よりも高い位置で掲げ持っている。円通大師と劉涇らの位置が両作品で異なる点についても、典拠への忠実性の観点から説明が可能である。米芾らに関する記述の直後には「後に錦石橋有り、竹径は清渓深き処に繚繞す」とあり、米芾らの後方に石橋が架かり、円通らの周囲には竹林が広がるとされる。これを念頭に両作品を比較すると、やはりB本の忠実性が際立つ。A本では米芾らの後方に橋がなく、画面外の左から円通らが座す岩へと素朴な橋が架けられているのだが、B本では、米芾らの後方に石橋が架けられ、対岸の岩上に円通らが座している。B本は「錦石橋」の描写だけでなく、米芾から橋、そして円通らへという「図記」での登場順に沿って、自然に視線が誘導されるよう人物を配していることが分かる。さらに、B本の画面全体に目を戻すと、そもそも画中における各人物群の配置が「図記」での登場順を意識したものと知られる。すなわち蘇軾らのグループを起点、円通らを終点として、下から上へジグザグ状に各人物群が配置されているのである。このように、B本はA本の図像を基に、より「図記」に忠実な絵画化を志向して描かれた作品として位置づけられる。こうした「図記」への忠実性を重視する態度は靄厓に限らず、1800年代以降の西園雅集図に散見される(注15)。その背景には同時期に興った考証随筆の流行や、靄厓も師事した谷文晁周辺での古物・古画研究、あるいは、高い漢文学素養を有した注文者の存在などが推察できる(注16)。靄厓B本にみる作画態度もまた、同時代の文化潮流の中で捉えることができるだろう。最後に一点、皴法に関する問題を提起しておきたい。現時点で筆者が把握する、江― 547 ―― 547 ―
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