注⑴ 『百部叢書集成之六十三 渉聞梓旧 第四函 宝晋英光集 附補遺』藝文印書館、1966年を底戸時代に国内で描かれた西園雅集図70点弱を概観した際、意外にも、水墨主体・著色主体にかかわらず、靄厓A・B本ほど明らかな斧劈皴を用いない例が大半であることに気付かされる。本稿で挙げた靄厓作品にみられた斧劈皴の使用が、参照した先行作例に基づくか、靄厓による改変かは明示し難いが、少なくともA本に関しては「小斧劈皴」と理解した上で用いたと見て相違ないだろう。これはA本と同年の制作にかかる「岩石図冊」〔図17〕(上野記念館蔵)のうち「小斧劈」にみえる皴法が、A本におけるそれと完全に合致するためである。また、先学が示すように、靄厓の山水画自体にも斧劈皴の使用例はごくわずかで(注17)、A・B本制作時に何らかの意図をもって皴法を選択した可能性が考えられる。現時点では判断材料が乏しく、その意図を明らかにし得ないが、靄厓自身の絵画観、古画学習の具体的な様相を踏まえると同時に、近い時期に活動した画家・文化人の思想をも把握したうえで、今後精査したい(注18)。おわりに靄厓作品以外にも紙面を割いたため、十分に論じることのできなかった論点は依然として多い。第一には、靄厓がどのようにして夙夜本系統の作品に触れたかという問題がある。くわえて、夙夜本系統の図像が地域・師系・時代を超えて写された理由についても検討を要するだろう。また、靄厓はB本以降にも複数の西園雅集図を遺している。彼の画業においてB本の制作が及ぼした影響についても、同主題作品との比較を通じて考察を進めていきたい。本とし、筆者が読点を施した。字数の都合上、人物・景物表現に関わる部分を抜粋した。 「李伯時效唐小李将軍、為著色泉石雲物草木花竹、皆絶妙動人、而人物秀発、各肖其形、自有林下風味、無一点塵埃気、不為凡筆也、其烏帽黄道服、捉筆而書者、為東坡先生、仙桃巾紫裘而坐観者、為王晋卿、幅巾青衣、拠方机而凝竚者、為丹陽蔡天啓、捉椅而視者、為李端叔、後有女奴、雲鬟翠飾倚立、自然富貴風韻、乃晋卿之家姫也、孤松盤鬱、上有凌霄纒絡、紅緑相間、下有大石案、陳設古器瑶琴、芭蕉囲繞、坐於石盤旁、道帽紫衣、右手倚石、左手執巻而観書者、為蘇子由、団巾繭衣、手秉蕉箑而熟視者、為黄魯直、幅巾野褐、拠横巻画淵明帰去来者、為李伯時、披巾青服、撫肩而立者、為晁无咎、跪而捉石観画者、為張文潜、道巾素衣、按膝而俯視者、為鄭靖老、後有童子、執霊寿杖而立、二人坐於盤根古檜下、幅巾青衣、袖手側聴者、為秦少游、琴尾冠紫道服摘阮者、為陳碧虚、唐巾深衣、昻首而題石者、為米元章、幅巾、袖手而仰観者、為王仲至、前有鬅頭頑童、捧古硯而立、後有錦石橋、竹径繚繞於清渓深処、翠陰茂密中、有袈裟坐蒲団、而説無生論者、為円通大師、旁有幅巾褐衣而諦聴者、為劉巨済、二人並坐於怪石之上、― 548 ―― 548 ―
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