ネパールでは、古くから職業を規定するカースト集団が存在し、絵画制作は「チトラカール(Chitrakar)」という苗字をもつ集団の生業であった。画家でもあり、美術史研究者としても知られるマダン・チトラカール氏は、11世紀から20世紀初頭までの「チトラカール」の作品を丹念にたどり、ネパールの絵画史を明らかにしているが(注2)、その作例の多くは、宗教的な題材か、為政者を描いた肖像画である。ネパール経由で仏教が伝わったチベットでも、仏教絵画が発展を遂げ、同じ「布絵仏画」をさすチベット語「タンカ」と呼ばれている。本来の意味では、「ポーバ」と「タンカ」は同じものをあらわすが、今日のネパール美術においては、ネワール民族が描いたネワール様式の絵画を「ポーバ」、チベット系民族が描いたチベット様式の絵画を「タンカ」と、区別して使われることが多い。こうした伝統的なネパールの絵画に、遠近法といった西洋絵画の影響がみられるようになるのは、19世紀後半のことである。19世紀初頭、イギリスとの戦争に敗れたネパールには、イギリスの駐在官が置かれたものの、植民地となることは免れた。イギリス領となったインドでは、1850年代に美術学校が各地に設立されるなど、本格的な美術教育が始まったが(注3)、ネパールにはイギリスによる直接的な美術教育への介入はなかったため、ネパール人画家が本格的に油彩画を学びはじめるのは20世紀以降のことであった。最初の画家となったのは、インド・カルカッタの美術学校で学んだチャンドラ・マン・シン・マスケ(Chandra Man Singh Maskey, 1899-1984)であった。マスケは、インドのカルカッタ美術学校で1918年から1923年まで学び、ネパールに油彩画を持ち帰ったといわれている。帰国後の1928年にはネパールで最初の個展形式の展覧会を開催した。マスケの後には、テジ・バハドゥール・チトラカール(Tej Bahadur Chitrakar, 1898-1971)が、1922年から1927年まで同じくカルカッタの美術学校で西洋画の技法を学んだ。福岡アジア美術館所蔵の「父祖に捧ぐ」は、絵師の家系に生まれたテジ・バハドゥールが、油彩画の技法で、ポーバを描く父の姿を描いたものであり、ネパールの近代絵画史を象徴する作品である。2 アナンダムニ・シャキャとは:調査前の状況アナンダムニ・シャキャは、現在活躍するポーバ作家のひとりであるサムンドラマン・シャキャ(Samundraman Shakya, 1967-)の祖父にあたる人物である。サムンドラマンの父であり、アナンダムニの息子にあたる、シディムニ・シャキャ(SiddhimuniShakya, 1933-2001)もまた卓越した技量をもつポーバ作家であった。その苗字「シャ― 555 ―― 555 ―
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