鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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で描かれていることである。当時、仏菩薩を単色で描くことは一般的なことではない。もちろん下絵として単色の線で描かれることはあるが、アナンダムニの場合は、線だけでなく、濃淡をつかって塗られている。チベットに黒タンカと呼ばれる手法があるが、アナンダムニの単色の仏画はとは全く異なるものである。アナンダムニの単色による仏画は、菩薩がまるで写真に撮られたかのような表現である。アナンダムニは、⑦⑧⑨〔図9~11〕のような、アカデミックな西洋絵画的な作品を描く一方で、伝統的な宗教絵画の様式に積極的に写実的な表現をとりこんでいることがわかる。伝統絵画の技法に西洋的な技法をとりいれることは、アジア諸国の美術でよくみられることだが、仏画に写真の効果を適用しようとする試みは、きわめて稀なことである。アナンダムニのこうした単色の仏画や西洋美術的な傾向は、前述のビア氏によると、アナンダムニの交流関係にその要因があるという。アナンダムニが親しくしていた有力者のひとりに、当時のネパールの実質的な権力をもっていたラナ家に連なるカイザー・シャムシェル・ラナ(Kaiser Shamsher Rana, 1892-1964) (注6)という人物がいる。カイザーは貴重な蔵書のコレクションを有しており、アナンダムニは、それを見ることができたという。ビア氏は、①②〔図1、2〕の神仏が乗っている貝が、イタリア・ルネサンス期の画家サンドロ・ボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」に描かれている貝との類似から、画集などでイタリア絵画をみることができた環境にあったことを示唆している(注7)。さらにカイザーは、1930年にネパールの王室の人々の肖像写真を撮影した、アメリカ人写真家リチャード・ゴードン・マッツェン(Richard Gordon Matzene, c. 1875-1950)をネパールに招いた人物でもある。アナンダムニは、こうした人物たちとの交流から大きな刺激を受けたと考えられる。当時のネパールでは、インドの美術学校で油彩画を学んだ画家たちによって、ネパールに油彩画が持ち込まれ、油彩画作品が制作されるようになった。油彩画を学んだ画家たちは、伝統絵画を振り返ることなく、油彩画を自分たちのものにしようと努めた。一方、アナンダムニ・シャキャは、伝統絵画を学び、さらに西洋的な手法をつかい、仏画に新たな表現をとりいれた。こうした伝統絵画の革新は、絵師の家系出身ではなく、また近代的なアカデミックな美術教育も受けなかったアナンダムニだからこそできたことであるかもしれない。― 559 ―― 559 ―

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