鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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「ジャクソン・ポロック─彼はアメリカで最も偉大な現存画家か?」(『ライフ』誌1949年8月8日号)、「反逆の芸術家の悲劇的結末」(『ライフ』誌1956年8月27日号)といったポロック関係の有名な記事を紹介したり、ポロックが生前オールオーヴァーのポード絵画を展示した1950年のヴェネツィア・ビエンナーレや、同年のベティ・パーソンズ画廊での個展、そして結果的に没後回顧展として開催されることになった1956~1957年のニューヨーク近代美術館での個展の意義について考察した。第1章「生い立ち─西部時代」では、1912年にワイオミング州コディに生まれたポロックが1930年に18歳で西部からニューヨークに出てくる直前までの時期を扱った。コディの後ポロックは、親の仕事の都合などでカリフォルニア州とアリゾナ州を転々としたが、幼い頃の西部でのポロックの生活環境や経験が、いかにのちの彼の芸術にとって重要であったかを、彼のいくつかの伝記や彼自身のステートメントなども参照しながら再考した。たとえばポロックが芸術家を志すことになった経緯に関しては、母ステラや兄チャールズの影響がしばしば指摘されてきたが、父レロイの存在も注目に値する。石工や道路建設作業員などとして働いていたレロイの生きざまが、初期のポロックの芸術観や彫刻というジャンルへの一時の強い関心に、根底で影響を及ぼしていた可能性がある。そのあたりを、1932年2月にポロックがレロイに送った手紙の記述などを参照しながら考察した。次に、「カウボーイ・アーティスト」というよくあるポロック像。ポロックについて語る人が、西部出身のポロックにカウボーイのイメージを重ねるということがしばしばある。そして、そのような見方を浅薄なものとして批判する人たちもいる。ここでポロックの知人によって伝えられているポロックの言動などを調べてみると、ポロックは西部からニューヨークに出てきた当初、カウボーイ・アーティスト像を自己演出してさえいた節がある。少なくともその文脈において、上述のポロックのイメージは軽視されるべきではなく、それは、特に彼の初期の芸術におけるリージョナリズムとの関わりにおいて再考に値する問題ではないだろうか。そして、ポロックが西部の大地から受けた印象について。1944年にポロックが、「私は西部に対して明確な感覚を持っています。たとえば、その地の広大な水平性です」(注4)と述べたことはよく知られているが、ポロックがこの発言をなした文脈を細かく考察してみると、西部出身の画家だからスケールの大きな絵を描いたというような単純で皮相的な見方とは別に、もっと本質的な次元で、西部の大地の「広大な水平― 573 ―― 573 ―

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