は、農村部の剰余労働力を持て余した19世紀末の明治政府による移民政策に端を発するという点で、それ自体が近代の産物といっていい存在だ。1941年のアジア太平洋戦争勃発を契機に太平洋沿岸部に住む11万人以上もの日系人が敵性外国人として内陸部の僻地に強制収容され、戦後もそのスティグマを負い続けたこともまたよく知られる。つまり沖縄の人々も日系アメリカ人も、近代の幕開けから苦難に満ちた道のりを歩み、戦時中は両国からそれまで以上に阻害された社会集団であるといえよう(注1)。そうした状況下でも、彼らは芸術活動を積極的に行っていた。沖縄では名渡山愛順のように、帝展・文展に入選するような画家が戦前から活躍していたし、アメリカでは移民1世の小圃千浦のように、カリフォルニア大学バークレイ校の教授になった画家もいた。しかしながら、終戦後、基地問題や強制収容といった出来事を積極的にテーマとする美術家はほぼ皆無であった。占領下の沖縄では、米兵をパトロンとして戦後復興を遂げた美術界において、米軍に批判的な作品を制作することの難しさがあっただろう(注2)。また元敵国人という負い目を抱えた日系人も(2世、3世はアメリカ国籍保持者だったにもかかわらず)、戦後はアメリカ社会への同化を優先し、政治的な声を上げることは控えたのである(注3)。さらに、戦後のモダンアート界では抽象画が国際的な様式として興隆しており、抽象的な造形言語で具体的な社会政治的事象を扱うことの限界もあったと考えられる。こうして幾重にも抑圧と(自己)検閲がかけられた彼らの美術を変えたのが1960年代後半の「政治の季節」だ。アメリカでは公民権運動に触発されたアジア系のイエロー・パワー運動、沖縄では内地の活動家も加わった本土復帰運動を経て、美術家たちの意識にも変化が起きる。そしてこの時期に抽象からポップ・アートへと様式を切り替えた真喜志とシモムラは、既製のイメージを利用することでそうした新しい政治的意識を作品に反映させたのだ。以下では、彼らの初期代表作を「借用」の手法に絞って考察する。2 真喜志勉の《大日本帝国復帰記念》展、1972年1941年生まれの真喜志は、米軍占領下の現実や矛盾を肌で感じて育った世代である。彼は沖縄ではカリスマ的な作家だったが、生前は本土ではほとんど知られていなかった。没後に沖縄の県立美術館と県立芸術大学で追悼展が、2020年には出身大学である多摩美術大学の美術館でも回顧展が開かれたことで、忘れられていた初期作品もようやく評価を得つつある(注4)。― 47 ―― 47 ―
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