1967年の『千曲川絶唱』という映画の広告から取られている〔図7〕。目を伏せた悲劇的な表情は、星個人というよりはアジア人女性全体を思わせ、戦争や暴力の被害を被りやすい女性という存在を暗示する。このことからも、本作品は真喜志によるベトナム戦争批判であると解釈できるが、前線基地として米軍を支える沖縄から発せられる彼のアメリカ批判は一面的ではない。シルクスクリーンが刷られた布をよく見ると、絵の具の下に「Donated by the People of the United States of America」の文字や中国語、韓国語のラベルなどが透けて見え、戦後アメリカからアジア各国に送られた救援物資の袋を使用していたことが推察できるのだ〔図8〕。つまり真喜志は、故郷を占領する侵略者としてのアメリカと、戦後困窮する沖縄に物資を送ってくれた救済者としてのアメリカという、二重の性質をこの作品に込めたのである。だが1972年の沖縄返還は、米軍の撤退を求めていた沖縄住民の願いを裏切るものとなった。1969年に米軍の駐留継続が判明すると、1970年のコザ暴動や1971年の大規模なゼネストなど、抗議運動も激化する。そして1972年の《大日本帝国復帰記念》展では、真喜志の批判はアメリカの帝国主義だけではなく、沖縄戦中に地元住民を迫害し、時には自死に追い込んだ日本の軍隊にも向けられることになったのだ。展覧会の案内状には戦時中の臨時召集令状である赤紙の複写が使われ、そこには「御國ノ為デアルカラ旅客運賃ハ各自デ支払フコトトス」と書かれていたように、その風刺は徹底していた。施政権の返還とともに自衛隊が再上陸し、沖縄はアメリカと日本による二重支配を受けることになる。そうした「祖国復帰」の代償を観る者に突きつけた点で、彼の批判は自らの同胞にも向けられていたと言えよう。彼はある新聞記者に展示の意図について次のように語っていた。自衛隊配備問題一つをとっても、もうみんな感覚的にマヒして、もう驚きもしない。会場にきて、戦争体験のある人なら、なつかしい東条の顔も見出して連想を広げるでしょうし、戦無派なら、それなりにイメージを持つでしょう。とにかく、埋没した日常性から離れてもう一度驚いてもらおうというわけです(注7)。こうした発言においても、真喜志の関心は米軍の駐留が続くこと以上に、自衛隊の再配備にあったことが示唆されている。したがって、《硫黄島の星条旗》の旗が日の丸へと変更されていたのは極めて理にかなっていた。日の丸は、沖縄では復帰運動中は帰るべき祖国の象徴として多くの人に敬慕されていたが、妥協の産物である本土復帰をきっかけにその意味が反転し、再び抑圧の象徴となったとも言われているからだ― 49 ―― 49 ―
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