鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ろう。そもそも、なぜシモムラは1940年代にアメリカで起きた出来事を表すのに18~19世紀に江戸で制作された浮世絵の図像を用いたのだろうか。実は、シモムラはもともと浮世絵に親しんでいたわけではなかった。戦後日系アメリカ人は日本的な生活や文化を封印することで白人社会と同化しようとしたが、シモムラの家庭も同様で、彼はアメリカの漫画本を読んで育ち、幼い頃は母の似顔絵を金髪碧眼として描くほど白人優位の価値観を内面化していたという(注11)。彼はワシントン大学でデザインを学んだ後、抽象表現主義風の絵画を手がけ、ウォーホルに触発されてポップの作風に至るが、1969年にカンザス大学に美術教員として着任した後も、日本美術にはほとんど関心がなかった。だが当時は白人が圧倒的多数を占めていたカンザスで数々の人種差別を受けたことから、半ば開き直ったかのように1972年頃から浮世絵を取り入れた制作を始めたのだ(注12)。そして1978年、シモムラはかつて自分と同じくミニドカに収容されていた日系1世、ジャック・ヤマグチによる当時の写真のスライドショーを見て衝撃を受け、収容所の記憶が一部甦ったことから《ミニドカ》の着想を得る(注13)。だが、強制収容に関する補償運動の機運が高まっていた時期とはいえ、その話題はアメリカ社会では一種の禁忌であり、マイノリティの画家が主題とするにはリスクが大きかった。表現の先鋭性が重視される「モダンアート」ではなく、民族色の強い「エスニックアート」と思われる可能性が高かったのである。このジレンマを自覚していたシモムラは、浮世絵の使用について次のように語っている。誰も強制収容という大失敗に関する説教くさい絵を買いたいと思わないでしょう。だからどうにかして作品が観客の客間に収まるような方法を考えないといけないと思いました。作品をエキゾチックなアジアというレベルで視覚的に魅力的なものにすることで、そこに強制収容のテーマを潜り込ませることができたんです(注14)。この発言からは、シモムラによる浮世絵の借用は極めて戦略的で、「日系人だから浮世絵を使うのは自然だ」という鑑賞者の思い込みを逆手に取っていることが分かる。また、別の機会には浮世絵の本来の「主題は重要ではありません。それをどう操作するかが重要なのです」と断言しているように(注15)、彼は浮世絵をあくまで画面の構成要素と見なし、半ば意図的にそれが本来持つ図像的な意味や歴史的な文脈を無視していた。このように屈折した借用の表現を読み解くには、シモムラが日系人である― 51 ―― 51 ―

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