注⑴沖縄は戦前からハワイやアメリカ大陸に移民を多く送り出しており、沖縄系アメリカ人は二つギー性の強い写真を改変・反復して沖縄返還をめぐる矛盾を鋭く突いたのに対し、シモムラは日系人の強制収容という禁忌を浮世絵の異国趣味的な魅力でカモフラージュしつつ、そこに人種的ステレオタイプへの批判を込めていたからだ。この違いには、当時は美術市場がほぼ存在せず、売買を意識せずに沖縄で作品を発表していた真喜志と、カンザスに住みながらシアトルで個展を開き、ニューヨーク市場への進出も狙っていたシモムラとの、現代美術家としてのスタンスの違いがあるだろう。だが二人の作品は、近代を通じて日米両国から阻害されてきた沖縄と日系アメリカ人の体験を初めてモダンアートの主題とした点で共通している。《大日本帝国復帰記念》展は1972年、《ミニドカ》は1978~79年と、その制作年はポップ・アートとしては遅いかもしれない。だがそれは、彼らの表現が革新的ではないということを意味しない。マイノリティである彼らが自らの境遇や歴史を作品化するには「政治の季節」を経て覚醒した政治的意識が必要であり、それを可視化したポップ作品としては非常に先駆的だったからだ。真喜志とシモムラはお互いを知らなかったが、彼らが用いた借用の戦略や、ナショナリズム批判・人種差別批判としてのメッセージ性を考えると、その作品は「境界の戦後美術」として共通の問題意識に裏打ちされていたと言えよう。の土地をつなぐ存在だが、本稿では沖縄で制作を続けた真喜志に焦点を絞る。⑵戦後、首里近郊に「ニシムイ美術村」を形成した画家たちは、米兵の肖像画やクリスマスカードなどを描いて収入を得ていた。『ニシムイ─太陽のキャンバス─』(沖縄県立博物館・美術館、2015年)を参照。⑶ミネ・オークボが1946年に出版した『市民13660号』は重要な例外だが、これは美術作品というよりは挿絵入りのドキュメント本という性格が強い。⑷2016年の追悼展では『Tom Max: 1941-2015』と『Tom Max: Art Works』が、2020年の回顧展では『真喜志勉 Tom Max: Turbulence 1941-2015』が出版された。これらの文献のほか、筆者は以下の論考を発表している。“Pop as Translation Strategy: Makishi Tsutomuʼs Political Pop inOkinawa,” ArtMargins vol. 7, issue 2 (June 2018), pp. 42-71.⑸ルイスがリーダーを務めていたモダン・ジャズ・カルテットが1960年に出したLPレコード、『ユーロピアン・コンサート』のジャケット。⑹以下、本稿で言及する展覧会の記録写真は2016年の出版物に掲載され、筆者が真喜志宅で確認したものである。⑺「埋没した日常性を撃つ 真喜志勉個展」。真喜志宅に遺された資料ファイルに貼り付けられていた新聞の展覧会評記事。新聞名と掲載日は不明。⑻仲里功『フォトネシア─眼の回帰線・沖縄─』(未来社、2009年)、pp. 142-44.― 53 ―― 53 ―
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