⑥カミーユ・ピサロと世紀末のパリ─「テアトル・フランセ広場連作」に見る都市のユートピア─研 究 者:静岡市美術館 学芸員 深 尾 茅奈美1.序カミーユ・ピサロと聞いて最初に思い浮かぶのは、穏やかな農村風景画であろう。ピサロが都市風俗を描いた他の印象派画家と差異化を図るべく、田舎の主題に取り組んだことはよく知られた話である。しかし1890年代初頭から彼はパリ、ルーアン、ル・アーヴルを舞台に都市連作に着手する。パリの連作で関心を寄せたのは、人々や馬車が往来する街路であった。1897年から98年の「テアトル・フランセ広場連作」〔図1〕は、第二帝政期(1852-1870)のセーヌ県知事、ジョルジュ・オスマンのパリ大改造を象徴するオペラ座界隈に取材している。モネが近隣の街路を1873年に描いていることを考えれば〔図2〕、ピサロはモネから20年以上もの遅れを取って、第三共和政も中盤に差しかかっていた時期に、この主題に目を向けたことになる。しかし不可解なのは、ピサロが心酔していたアナーキズム思想と、ジョルジュ・オスマンが決行したブルジョワジーのための都市改革が、本質的に相容れないものであったという点である。オスマン改革は街路の建設や上下水道の整備によって衛生と治安の問題を解決し、近代都市パリの原型を作り上げたが、その裏では労働者の居住区を取り壊し、不穏分子である彼らを市の中心部から駆逐するという犠牲も払っていた(注1)。すなわちそれは、アナーキストが俎上に挙げることとなる不平等社会の元凶を成した事業であった。アナーキズムの父、ピエール=ジョゼフ・プルードンは不労所得を得る資本家を批判し、労働者と資本家が対等な関係性を築くことのできる社会の実現を訴えた(注2)。これに共感したピサロは素描集『社会の下劣』(1889年)〔図3〕で、ブルジョワジーの搾取や、貧困に起因する暴力などを批判的に描いている。「テアトル・フランセ広場連作」では街路を行き交う群衆の活気が表され、ブルジョワジーへの忌避が感じられない。こうしたパリの表象と画家の社会思想との矛盾について、先行研究では明快な説明がなされてこなかった。例えばピサロの連作をまとめて取り上げた展覧会、『印象派画家と都市─ピサロの連作』(1993年、ダラス美術館)の作品解説でも、この点は言及されていない(注3)。本稿ではこれまで参照されることのなかった当時の地図等の資料から、描かれた街路の地理的特性や交通状況を明らかにし、本連作とアナーキズム思想との関係を考察する。― 58 ―― 58 ―
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