なお、ピサロは本連作以外にもパリの街路を描いており、それらは制作拠点〔地図1〕ごとに3つの連作に分類される。いずれもホテルからの景観を描くという手法が取られている。ひとつ目は1893年2月から5月と1897年1月から2月にロテル=レストラン・ド・ロームで制作された「サン=ラザール通り連作」である。続いて1897年2月から4月に描かれた「モンマルトル大通り連作」は、ロテル・ド・リュシーを制作拠点としていた。最後に制作されたのが1897年12月から1898年4月の「テアトル・フランセ広場連作」で、ル・グラン・ドテル・デュ・ルーヴルで描かれている。2.街路に見出されたユートピア2-1.「大通り」と「通り」の表象「テアトル・フランセ広場連作」の地理的環境は次の通りである〔地図1〕。ル・グラン・ドテル・デュ・ルーヴルの北北西にはテアトル・フランセ広場があり、そこからサン=トノレ通り、オペラ大通り、リシュリュー通りが伸びている。ピサロはホテルからの景観を、テアトル・フランセ広場とその背後に伸びるオペラ大通りを眺めた構図〔図1〕、テアトル・フランセ広場をクローズアップした構図〔図4〕、サン=トノレ通りを取り上げた構図〔図5〕に分割した。以下ではこの順に「オペラ大通りの構図」、「テアトル・フランセ広場の構図」、「サン=トノレ通りの構図」と呼ぶ。全15点の本連作は、そのうちの12点が画商デュラン=リュエルに購入されている〔表1〕。オペラ大通り(LʼAvenue de lʼOpéra)は、第二帝政期に建設された街路である。オスマンが注力した事業の一つに、東西南北の軸を成す大十字路の建設があり、これは右岸のリヴォリ通りとセバストポール(ストラスブール)大通りを拡張し、シテ島を挟んで左岸にサン・ミッシェル大通りを新設するというものであった。またオスマン改革では、オペラ座界隈にも活況がもたらされる。キャプシーヌ大通り沿いにはオペラ座が再建され、高級ホテルのグラン・ドテルも1857年に創業した。オペラ座が竣工するのは1875年のことであるが、モネは1873年の《キャプシーヌ大通り》〔図2〕で左手にグラン・ドテルを配し、オペラ座界隈の賑わいを描いている。そして活況を呈したキャプシーヌ大通りと、大十字路へと続くリヴォリ通りを結ぶべく建設されたのがオペラ大通りであった(注4)。オペラ大通りを南下した場所にあるテアトル・フランセ広場には、旧王宮のパレ・ロワイヤルと、その一角に王立劇場のテアトル・フランセがあり、この劇場の建造物も第二帝政期に建替えられている(注5)。このように連作に描かれたのは、オスマン改革を経てブルジョワジーの娯楽文化の中枢となった地区であった。― 59 ―― 59 ―
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