鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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が画一的な「大通り」を「近代」の象徴とみなしたとすれば、世紀末のピサロは雑然紛然とした「通り」に、自由に基礎づけられた新たな「近代」の兆しを感じ取ったということになろう。ピサロの街路連作を概観すると、「サン=ラザール通り連作」〔図8〕では、サン=ラザール通り(La Rue de Saint-Lazare)、アムステルダム通り(La Rue dʼAmsterdam)、ル・アーヴル広場を取り上げており、画家が当初から人々が雑然と集まる「通り」や広場に関心を寄せていたことに気づかされる。「モンマルトル大通り連作」〔図7〕はブルジョワジーが集まるイタリア人大通り(Le Boulevard des Italiens)およびモンマルトル大通り(Le Boulevard Montmartre)を描いていたが、これはデュラン=リュエルから「大通り(boulevard)を取り上げた小品、あるいは大型の作品を描くように勧められた」からであった(注8)。したがって、「テアトル・フランセ広場連作」で、画家が第二帝政の産物であるオペラ座界隈を題材としながら、自由を象徴する「通り」の特質を描き出したのは、画商や購入者層の趣味と、自らの芸術観および政治信条との折り合いをつけた結果であったと推察される。2-2.「階級のるつぼ」としての街路と乗合馬車とはいえピサロはテアトル・フランセ広場の光景に、リュスが描いた労働者地区にはない特性も見出している。《テアトル・フランセ広場、乗合馬車》〔図9〕を観察すると、シルクハットをかぶり新聞を読む男性や、青いスモックを着た男性、荷車を押す女性、荷物を詰めた籠を持つ女性などが確認される。またブルジョワジーを象徴する一頭立て四輪馬車の間を、庶民が用いた荷馬車や乗合馬車が走り抜けている。労働者に主眼を置いていたリュスの《ムフタール通り》〔図6〕とは対照的に、本連作では多様な階級の人々がひとところに集まる様子が捉えられているのだ。オペラ座やテアトル・フランセの利用者であったブルジョワジーが画中に含まれるのは当然だが、労働者が描かれているのは、テアトル・フランセ広場がサン=トノレ通りと隣接していたことが一つの要因であったと思われる。この通りはテアトル・フランセ広場の東側にある中央市場に通じていた〔地図1〕。各地から生産者が集まった中央市場は、当時首都の台所としての機能を果たした(注9)。エミール・ゾラの小説『パリの胃袋』(1874年)はこの市場を舞台として、荷馬車や手押し車で周辺の道路が渋滞する様子を描写している(注10)。またレルミットによる1895年の《レ・アール》〔図10〕によれば、市場に出入りしていた庶民の女性たちは頭巾、エプロン、大ぶりの網籠を身につけ、男性たちは褐色や水色のブラウスやキャスケットを纏って― 61 ―― 61 ―

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