いたようである。ピサロの《テアトル・フランセ広場、乗合馬車》〔図9〕では、黒いワンピースに白いエプロンと頭巾を浸ける前景左端の女性や、青いスモックを着る男性など、レルミットの描いたのと類似した服装の人々が表され、彼らは中央市場に出入りした労働者ないし同等の社会階級の人々であった可能性が高い。なおアナーキストの間では資本主義に対する多様な考え方があったが、ピサロが信奉したプルードンは資本制自体は批判せず、搾取を生み出す抑圧的な人間関係に異議を唱えた。ピサロがプルードンと同様に資本主義に両義的な態度を取っていたことは、ポントワーズ近郊の市場を繰り返し描いていることからも窺える。労働者とブルジョワジーが合流するパリの街路を、ピサロが「近代」的と形容したのは、階級間の不平等が撤廃された理想社会のモデルを見てとったからであろう。ロスラクによれば、当時のアナーキズム界を率いたピョートル・クロポトキンは、万人が利用できる公園や博物館、交通機関といった都市の公共物に、平等社会の実現につながる可能性を見出していた(注11)。また、ジュール・バレは1882年の『ル・タブロー・ド・パリ』の中でパリの大通りを平等で友愛的な共同体のイメージに重ねており、以下の一節はピサロによる街路の表象に通じるものがある。万人に開かれ、仕事や娯楽で多くの人々が集まり、都会の熱が飛び交う大通りは、あらゆる社会階級の人々が入り混じり、その粉塵の中で偏見や憎しみが消えてなくなるのを目の当たりにしてきたのである(注12)。しかしここで付言すべきは、ピサロもヴァレも現実の光景から理想的な社会像を体現する一場面を切り取ったに過ぎず、実際の社会状況はそれと異なっていたということである。世紀末に始まる「ベル・エポック」期にはブルジョワ文化が大いに隆盛するが、その一方で労働者は花の都パリからますます駆逐されていった。地価の高騰で企業が周縁のコミューンや郊外に移転し、労働者も移住を余儀なくされる。1896年から1906年にかけて工場労働者数は郊外ではほぼ倍増しているが、パリでは3分の1程度の増加に留まっている(注13)。共生社会への希求は馬車の描写にも表れる。本連作の大半の作例で、人々を屋上席に乗せた二頭立ての乗合馬車が画中の目立つ位置に配されている〔図1、4〕。今日のバスの原型となった乗合馬車は、20世紀初頭にエンジン式バスが普及するまで首都の主要な交通手段であった(注14)。個人所有の馬車、レンタル馬車、タクシーの前身である辻馬車も走っていたが、これらを利用できたのは富裕層だけであったという― 62 ―― 62 ―
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