鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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(注15)。他方、乗合馬車の料金は乗り換えがない場合で室内席が30サンチーム、屋上席が15サンチームで、庶民にも利用しやすい料金設定であった。1893年の乗合馬車の路線図では、オペラ大通り、サン=トノレ通り、リュシュリュー通りに異なる路線が走り、テアトル・フランセ広場で4本の路線が交わっていることが確認される(注16)。マーシャ・ベレンキーは19世紀の文学作品の中で、乗合馬車が階級間の平等を象徴するモチーフになっていたことを指摘しているが、その一例として挙げられるオクターヴ・ユザンヌによる乗合馬車の記述は、ヴァレの街路観と酷似している(注17)。乗合馬車の旅は、あらゆる社会階級の人々を差異なく一つに結び付けるものである。パリで出会うことのできる最良のものの中でも、乗合馬車の車両は慇懃な民主主義と友愛の最も完全なイメージを与えてくれる。労働者、小売店主、年金生活者、学者、詩人、資本家、役者、召使、主人、音楽家、歌手、アカデミー会員、屑拾いは、外気にさらされた屋上席、狭いデッキ、もしくは室内席の座席で、毎日わずかな時間だけすれ違うのである(注18)。ゆえにアナーキストであったピサロがこのモチーフに魅了されたのも当然であった。彼は街路に対してと同様、様々な人々が乗り合わせる乗合馬車にも、来るべき共生社会の希望を託したのである。3.結─印象主義の再定義以上の通り、一見ブルジョワジーの界隈を取り上げているように見える「テアトル・フランセ広場連作」は、その実、多様な社会階級の人々が行き交う場所に光を当て、ブルジョワジーと労働者の友好的な共生を目指すアナーキズム思想に通じるものであった。本連作がブルジョワジーに購入されたことを考慮すると、ピサロが鑑賞者にそうした社会思想を伝えようという意図があったとは考え難い。しかし彼自身、「アナーキズム哲学に浸された我々の思想は、我々の作品にも影響を及ぼしていると確信している」と述べているように(注19)、その政治信条が絵画に表出することはあったはずである。さらにピサロにとって街路連作はひとつの芸術的挑戦でもあった。1870年代以降、「大通り」は印象派と分かちがたく結びつけられていた。そのことは1880年代後半にゴッホが新印象派や後のナビ派の画家達を集めて印象派を超越する芸術家コミュニ― 63 ―― 63 ―

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