⑦幕末・明治期のイタリア人蚕種商人と横浜における美術について─ポンペオ・マッツォッキを中心に─研 究 者:横浜美術館 学芸グループ 主任学芸員 八 柳 サ エはじめに西洋文物流入の窓口として活況を呈した開港後の横浜で、来日外国人らが、日本の風景、風俗などが描かれた絵を土産物として求めた中で、初代五姓田芳柳[文政10(1827)~明治25(1892)]は、絹地に薄塗りの着色による和装人物像に、撮影された外国人肖像写真の頭部のみを当てはめて描いた外国人和装肖像画を創始したとされてきた。それは「横浜絵」「真画」「写真画」「隈画」「絹絵」などいくつもの呼び名を持つが、ここではまず便宜上「横浜絵」とする。横浜絵の多くは、外国人からの受注制作で、その依頼主が自国への土産物としたため、その存在自体は確たるものながら、日本国内で確認できる作例は限られてきた。また、五姓田義松が「此風遂ニ一ツノ弊習ヲ生出シ 凡俗」と述べ(注1)、美術品としては高く評価されず、初代芳柳や義松の制作を離れ、横浜絵の需要への対応が弟子たちによる工房へと移ってやがて廃れたため(注2)、横浜絵制作の経緯は、ほとんど不明のままである。けれども、横浜絵は、幕末期の写真と絵画の関係性を示す点でも、また絹本着色の従来の技法に西洋画の技法を取り入れた表現で開港期特有の視覚の変容が汲み取れる点、受注制作として外国人との交流から絵画が生まれ、外国人からの需とその好尚に応じた表現、すなわち外国人向け絵画の性格が窺える点、それが海外にもたらされてどのような影響を与えたかを考察し得る点、そしてまず肖像画である点など、さまざまな観点から興味深い対象である。国内で知られる横浜絵の作例として、本助成申請者の所属機関である横浜美術館に掛軸2点、伝五姓田芳柳画とされてきた《外国人男性和装像(仮題)》(所蔵品番号95-JP-00C)〔図1〕と《外国人女性和装像(仮題)》(所蔵品番号95-JP-00D)〔図2〕がある。しかしこれまで、作者、像主(モデル)などは判明していない。そこでこの度、初代芳柳門下の画家、平木政次が、その著『明治初期洋画壇回顧』において、写真から絹地に描く肖像画を喜んだ「その外国人は多く伊太利人で商売は蚕の種紙を買入れに、毎年一定の時期に渡来して来た者」(注3)と述べることに着目したところ、一時期、蚕種貿易(注4)が驚異的な隆盛をみた19世紀半ば以降、周期的に来日したイタリア人蚕種商人の一人、ポンペオ・マッツォッキ(Pompeo ― 69 ―― 69 ―
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