Mazzocchi、1829-1915)旧蔵作に、五姓田芳柳と横浜絵の関連作例があると判った。ここからイタリア現地にてマッツォッキ旧蔵作の悉皆調査と蚕種商人マッツォッキの横浜、日本国内での行動から横浜絵制作に関する手がかりが導かれはしないか、さらには蚕種貿易を通じた或る種のジャポニスムとも呼びうる日伊交流の一端が浮かび上がるのではないか、との考えから、調査に着手したのが本助成申請の動機であった。Semai研究の第一人者クラウディオ・ザニエル氏によれば、横浜での活動が確認できるイタリア人蚕種商人の人数は、1861年にたった1人であったのが、1873年には68イタリア人蚕種商人と日伊蚕種貿易横浜開港は1859年、イタリアが統一国家、国名イタリア王国となったのは1861年。イタリアとの交易として日本の蚕種需要が急騰したのは、19世紀後半の一時期に限定されている。当時イタリアは、絹の生産において欧州全体の約70%を占め、繭・生糸の生産国として養蚕業への依存度が高かった。それだけに、1850年代からの蚕の伝染病・微粒子病(ペブリン)の蔓延が養蚕業に与えた打撃は致命的で、国家的な災害とも受け止められた(注5)。養蚕業を継続するための唯一の方法は、感染していない蚕の卵を国外から輸入することであった。そのため、現在では使われなくなった「セマイ(Semai)」、即ち「蚕種商人」と呼ばれる蚕の種紙の取引を専門とする商人を生んだ。蚕種商人には、養蚕に関する豊富な知識と、優良な蚕種を見抜く能力が必要であったほか、地中海沿岸諸国への微粒子病の感染拡大に伴い、無病で品質の高い蚕種の獲得に向けて、より遠方にある世界の養蚕地帯に旅する勇敢さが求められた。イタリアでは蚕のサンプルが注意深く研究され、極東日本の蚕種が良質で、しかも平均して優良と判ると、日本はイタリア蚕種商人の目指す国となる。日伊国交の正式な開始となる日伊修好通商条約締結は1866年だが、イタリアはそれ以前から日本産蚕種の輸入を開始しており、しかもイタリアでは日本産の蚕種の信頼性を高める新聞広告なども盛んに行われて(注6)、他の地域ではなく日本からの輸入に集中していく。日本の蚕種は、品質が良くても、1年目以降、翌年には微粒子病に侵されたため、蚕種商人は、1年周期で感染していない良質な蚕種を仕入れる必要があった。1869年、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)が微粒子病蔓延を食い止める予防法を見出したが(注7)、その適用にはいくつかの課題があって、養蚕業者に浸透するまでにはある程度の年限を要した。こうして、イタリア人蚕種商人の来日は、1860年頃から、1870年前後をピークに1880年代初頭までの期間であった。― 70 ―― 70 ―
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