鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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人に上ったという(注8)。市場規模の急激で驚異的な拡大を物語る。日本からの蚕種の輸出先は主にフランスとイタリアで、横浜港からの蚕種輸出量は、1873年には全国輸出高の99.4%を占め、蚕卵紙の枚数は140万9千枚に及んだが(注9)、その約6割の輸出先は、イタリアだった。財政状況が安定していなかった維新後の日本で、蚕種産業はイタリアの需要に支えられ、一時輸出の主軸となったのである。イタリア人蚕種商人は、大部分が海路で来日し横浜に上陸した。はじめは横浜の居留地にいたフランス、スイスなどの商館に滞在して、横浜における蚕種を大規模に商っていたが、1865年から横浜で活動するイシドーロ・デルオーロ(Isidoro DellʼOro)のように、イタリア人が商館を開いて商うようにもなった。イタリア輸出の急増に応えて供給体制組織を整え、事業を拡大させた日本の蚕種生産業者は、やがて微粒子病が沈静化に向かい取引が減衰すると、現群馬県の島邨勧業会社を興した田島弥平や、現秋田県の川尻組を組織した川村永之助など、イタリアに直輸出に赴く者もあった。蚕種生産業者の中には、急激な好景気に付け込み、粗製濫造で質の悪い蚕種を売り込む者が現れ、安定した品質の供給を果たせずに信用失墜を招いたり、供給過多で価格の暴落を引き起こしたりした。種紙の価格暴落を受けて、1874年には渋沢栄一の主導により横浜で約45万枚の蚕卵紙焼却が行われ、翌年には渋沢が、蚕種をイタリアへ輸出すべき意見書を提出して蚕種貿易の安定を図ろうともした(注10)。がやがて、日本からの直輸出の努力も空しく、欧州における日本の蚕種需要は衰退し、蚕種輸出の景気は短命に終わった。蚕種商人ポンペオ・マッツォッキイタリア人蚕種商人は、市場の状況を知るためなどもあり、横浜上陸はまず夏季7~8月であった。イタリアからの航路は、スエズ、シンガポール、上海か香港を経由するルートと、ニューヨーク、サンフランシスコを通るアメリカルートがあり、来日には片道45日から70日を要した。大抵は10月末から11月初めころイタリアへの帰途に就いたので、全旅程は約7か月間となった。日本滞在は2~3か月間に限られたのである。これは、平木が横浜絵を発注する「その外国人は多く伊太利人で商売は蚕の種紙を買入れに、毎年一定の時期に渡来して来た者で、船の出帆迄の日限がありますので描くのにも随分忙しい思ひをした」(注11)と述べることに合致する。マッツォッキは、北イタリア、現ロンバルディア州ブレッシャ県コッカリオ市出身。初代駐日イタリア公使ヴィットリオ・サリエ・ド・ラ・トゥール伯爵(Conte ― 71 ―― 71 ―

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