鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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Vittorio Sallier De La Tour)はイタリア北西部トリノの出身で、二代目駐日イタリア公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵(Conte Alessandro Fè DʼOstiani)は、マッツォッキと同じブレッシャ出身であった(注12)。マッツォッキは、1864年から1880年までに15回来日している(注13)。幕末の日伊交渉で重視される人物の一人で蚕種商人でもあったピエトロ・サヴィオ(Pietro Savio)は、1869年から1880年の間に少なくとも10回来日し、1861年という早い時期に渡来した蚕種商人ニコロ・ヴセティッチ(Nicolo Vucetich)は1872年までに少なくとも8回来日しているという(注14)。日伊交渉の中心的立場にあるフェ・ドスティアーニ伯爵は美術品収集でも知られるが、蚕種商人の中にも、滞日期間は限られても複数回の来日によって、日本の風俗や文化、工芸品や美術品への関心を深め、収集した者がいた。磁器を収集したフェルディナンド・メアッザ(Ferdinando Meazza)のコレクションは、のちにパリのチェルヌスキ美術館所蔵となっている。マッツォッキは、1864年に来日を果たすと、翌年にはブレッシャ市議会や商工会議所の依頼で蚕種購入調査隊長として来日、横浜にとどまらずに函館に赴いた。また、1872年の新橋横浜間鉄道開通式に出席する一人であったり(注15)、1874年にはサヴィオらと日本の内地旅行ができた一人であったりした(注16)。田島弥平、田島弥三郎らは、日本でマッツォッキと交わり、自分たちがイタリアを訪問した際、明治13年(1880)4月21日にマッツォッキをコッカリオに直接訪問し、蚕の飼育室などを視察した(注17)。マッツォッキも日本で求めた美術資料などを故郷にもたらした一人である。彼は、地元の養蚕業をよく知ると共に、日本の蚕種によって自らが財を成せたことから、日本に感謝の念を抱いていた。コッカリオに購入した土地に建てた建造物に「横浜」「長崎」などと名付けたことからもそれが窺える。五姓田芳柳と横浜絵初代芳柳が創始したことになっている横浜絵について、芳柳の伝記的な記述である以下のいくつか、即ち、五姓田義松筆「父ノ履歴」(注18)、関根金四郎「五姓田芳柳」『本朝浮世絵画人伝 下』(修学堂、1899年)(注19)、本多錦吉郎編刊「五姓田芳柳君」『追弔記念洋風美術家小伝』(私家版、1908年)(注20)などの明治期刊行資料を参照してみても、いつの時点で横浜絵が誕生したか明確にすることは難しい。さらに、青木茂氏、山口正彦氏をはじめ先行研究にも可能な範囲で閲覧した限りで、イタリア人― 72 ―― 72 ―

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