鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
85/602

蚕種商人の受注と横浜絵に関する記述は、見いだせなかった。五姓田派および幕末明治期の美術において欠かせない港横浜の地でこそ、横浜絵に関する資料が調査できて然るべきであろうが、横浜は、居留地が慶応2年(1866)の大火など或る規模で街が変貌したこともあるが、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の横浜大空襲の二大事件によって、街と文書類に壊滅的な打撃を受けたため、横浜での資料掘り起こしにはそれも考慮しなければならない。横浜絵の手がかりとして、イタリア人蚕種商人への気づきを与えた平木の記述からは、写真から絹地へ淡彩で描いたこと、注文の絵柄は士農工商風俗で、立ち姿が好まれたことなど具体的ないくつかの証言が得られる。平木が入門した慶応4年(1868)頃、「肖像画は専ら芳柳、義松両先生揮毫」(注21)であった。平木は、写真からの絹絵の肖像画だけではなく、外国人への土産物全般を指して輸出絵と呼び、中でも寒冷紗に描かれた「ドコマクリ」と呼ぶ「安物の風俗画」は絵葉書同様だったと述べるが、それに関連する可能性を示唆する作例類がスイス国内に存在するという貴重な情報が今回得られた(注22)。明治10年(1877)頃から書き起こし、渡欧準備の頃に書き足されたとされる(注23)五姓田義松自筆「父ノ履歴」『五姓田義松履歴』における横浜絵の件は次の通りである(原欄外註は省く、𥿻は絹の国字)。ここでは真画とされている。「猶洋画ノ行ナハレサルヲ遺憾トシテ𥿻或ハ洋紙ヘ水彩色ニテ肖像ヲ画ク事ヲ発明ス(世俗真画ト云フ 𥿻地ヘ面相ヲ写スニ 先ツ始メハ黒ヲ以テ骨格ヲ描キ 而シテ陰陽向背ヲ渾暈シ 後着色ス) 年久ク此業ヲ営ミ 今日ニ及テ府港ノ丁男此画風描模シテ生業ヲ立ル者尠カラス 惜ヒ哉目今ノ如キハ此風遂ニ一ツノ弊習ヲ生出シ 凡俗腕[ママ]弱ニ流レ 往々ニ見ルニ忍サル物ナカル可ラサル也」また平木の記述に照らせば、明治9年(1876)に初代芳柳は本郷真砂町に引き移ったが、その当時に輸出絵を専門に描いた画家として、中山年次、沖田才助、山本芳翠と、矢内楳秀を挙げている。「矢内氏は花鳥専門家で大田町に開店して、数十年もつゞいて繁昌し」た、と。また、「五姓田父子横浜を去つてからは、人物画家は妙な画をかいて居ました。それは顔の部を西洋人の肖像にし、衣服は日本人の服に描き、模様に至って刺繍を施したりして、盛に輸出画を描いて居ましたが、その後の輸出画の変遷については遺憾ながら知りません」とも述べている。これらの記述を注意深く辿れば、初代芳柳が描いて優等画とされた肖像画は、頭部― 73 ―― 73 ―

元のページ  ../index.html#85

このブックを見る