や顔だけを描いた肖像画ではない。顔の部分だけを写真から描いた横浜絵は、初代芳柳らが離れて以後に生まれた「妙な画」とされ、それらを専門に描く初代芳柳の弟子や孫弟子たちが制作していたことが窺える。マッツォッキ旧蔵の横浜絵イタリアでの現地悉皆調査を目指したマッツォッキ旧蔵資料で、まず採りあげたいのは、ポンペオ・マッツォッキ肖像画である〔図3〕。絹本の淡彩で、図版から款記は「横浜□ 五姓田芳柳 藤?友正一写畫」とも読みうるため(注24)、初代芳柳と何らかの関わりが手繰れる可能性があり、是非現地での実見が望まれるが、本作は個人蔵で傷みも激しく、現地でならともかく日本から本作の情報だけを得ることは現段階では難しく、作品サイズも不明である。マッツォッキ旧蔵資料は現在整理途上で(注25)、一部は2017年からコッカリオのマッツォッキ東洋美術館で公開されている。そのうちの《マッツォッキ夫人像》は、横浜絵である〔図4〕。これはマッツォッキ東洋美術館での展示状態で館から提供された画像。本作が日本で掛け軸に仕立てられずイタリアに渡ったと推察される。制作年は『明治初期の日伊蚕糸交流とイタリアの絹衣裳展』(2001年)では「1879年に日本で描かれた」とあるが、その後1880年頃とされている(注26)。1880年は、マッツォッキ来日の最後の年。夫人のヴィットリア・アーミチ・マッツォッキは、1881年1月に結婚した20歳の妻、彼は52歳だった。夫人に来日経験は無い。マッツォッキが写真を元に、横浜絵を依頼したと推測されるが、その元になった写真などは残されていない(注27)。画面左下の款記は「横濱矢内舎 柳甫寫」〔図5〕、夫人が手にする扇子上には「午初秋 柳甫」の文字(画面上では扇子上の文字は逆様になる)〔図6〕がある。矢内舎は、おそらく矢内楳秀門の工房。〔図7〕のように、見本の掛軸を示し、写真をもとに頭部を外国人の肖像に描いていた横浜絵受注の工房と考えられる。矢内舎柳村作《和服姿の米婦人》(絹本着色、108.0×48.0cm、神奈川県立歴史博物館蔵)は以前から知られている。横浜美術館蔵《外国人女性和装像》は、矢内舎柳甫作《マッツォッキ夫人像》とは左右反転ながら、様式化した衣文の表現などに明らかな類似が認められ、矢内舎作の可能性が濃厚である。マッツォッキ東洋美術館には、ほかに矢内舎柳甫による婦人像や、「矢内」と読める、日本の養蚕と生糸生産工程を描き分けた絹本着色の九図の絵画が所蔵されている(注28)。― 74 ―― 74 ―
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