注⑴五姓田義松自筆「父ノ履歴」、青木茂『油絵初学』(筑摩書房、1987年)所載p. 298⑵五姓田義松、前掲書、および平木政次「五姓田義松」『明治初期洋画壇回顧』(日本エッチング(注30)。現地調査で得られる情報と成果は捨てがたく、コロナ禍が晴れて現地の調査に着手できる好機を願って、今後の本調査進展を期したい。Libraria Editrice Università di Padova、2006年)p. 142所載図参照研究所出版部刊、1936年の復刻、湖北社、2001年)pp. 14-16⑶平木、前掲書、p. 10⑷蚕種(さんしゅ)は、蚕の卵を指す産業用語。「さんたね」ともよく呼ばれる。蚕の卵を無数に貼り付けた四角い厚紙の「種紙(たねがみ)」あるいは「蚕卵紙(さんらんし)」を取引する。用語については「蚕種─近代化をささえた技術の発展」展図録(群馬県立日本絹の里、1999年)などを参照⑸クラウディオ・ザニエル(Claudio Zanier)「ヨーロッパ微粒子病の蔓延と日本に渡ったイタリアの蚕種商人(1861-1880)」『明治初期の日伊蚕糸交流とイタリアの絹衣裳展』(群馬県立日本絹の里、2001年)図録所載。幕末明治期の日伊蚕種貿易についての主要参照文献は、本展図録、横浜市役所編纂『横浜市史稿 産業編』(1932年刊の復刻、臨川書店、1986年)、藤本實也『開港と蚕種貿易 中巻』(刀江書院、1939年の復刻、名著出版、1987年)、猪谷善一「明治初年に於ける蚕種輸出」『社会経済史学』第6巻第10号(社会経済史学会、1939年)pp. 1383-1420、本庄榮治郎「幕末の蚕種貿易」『經濟論叢』第51巻第5号(京都帝国大学経済学会、1940年)pp16-35、岩倉翔子「19世紀日伊交流の一側面─ピエトロ・サヴィオの<旅行記>をめぐって」、『イタリア圖書』第37号(イタリア書房、2007年)所載、ジュリオ・アントニオ・ベルテッリ(Giulio Antonio Bertelli)2007年大阪外国語大学提出博士論文「明治初期の日伊蚕卵貿易関係における第二次駐日イタリア全権公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵の役割(1870-1877)」ほか同氏の複数の論文、「人の移動とジャポニスム ジャポニスム学会国際シンポジウム2019」におけるStefano Turina氏発表資料など⑹ザニエル、前掲書、p. 47⑺パスツールの予防法発見年の記述は、1867年、1970年前後など幾つか見られるが、ここではベルテッリ、前掲書に基づく⑻クラウディオ・ザニエル(Claudio Zanier)『Semai setaioli italiani in giappone(1861-1880)』(Coop,⑼小泉勝夫「横浜開港と生糸貿易」基調報告(シルク・サミット2003 in 横浜、2003年10月9日)より「横浜港からの蚕種輸出量」(『横浜市史』第三巻 上 p. 472、第30表より作成図)参照⑽公益財団法人渋沢栄一記念財団デジタル版『渋沢栄一伝記資料』2編実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 1部実業・経済 3章商工業 28節貿易 9款蚕卵紙輸出問題 参照⑾平木、前掲書⑿ベルテッリ、前掲書⒀ザニエル、前掲書⒁ザニエル、前掲書⒂カテリナ・サルディ・バリサニ(Caterina Saldi Barisani)「Pompeo Mazzocchi(ポンぺオ・マッツォッキ)略伝」『明治初期の日伊蚕糸交流とイタリアの絹衣裳展』(群馬県立日本絹の里、― 76 ―― 76 ―
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