鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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(2)発表当時の批評と先行研究の挑戦は、「近江八景」において名声を得たものの翌年の第七回文展は病気のため出陳を断念した紫紅の次段階を示すものであった。病気から快復した大正3年(1914)2月、神戸を出発しアジアの国々を経てインドのカルカッタへと寄港。旅券の不備によって港外へ出られなかったという談話が残されている(注6)が、岡部昌幸氏は下絵やスケッチから内陸ブッダガヤでの取材を指摘している(注7)。「熱国之巻」の次は、東アジアでの取材をもとに絵巻を制作する予定であったとされる(注8)が、発表後再び病状が悪化し二年を待たずして他界したため果たされなかった。この頃の紫紅と活動を共にした速水御舟は「頭に食い入っている古画の影響から放たれる為に人知れぬ苦心をされた。「粉本によった技巧は技巧に非ず」とは氏の口から度々聞いた言葉である」(注9)とインド旅行の背景を推察しており、再興院展において新しい日本画創造に取り組んだ紫紅が、これまでの日本画を超克する意欲を持って制作した作品であることがうかがわれる。発表当時、本図は院展の傾向を示す作品の一つとして話題を呼んだ。「近年唱道された「力」の表現に就いて(略)色彩上より解釈せんとした」(注10)「写実より入りて装飾を志すもの」(注11)と色彩と装飾性に注目が集まったが、技法や画材に関しては「画材に奇現象を取入れた」(注12)「独創的技巧」(注13)と、特異性は認められつつも「顔料の間違った解釈(結局主観の貧弱)と、絵巻物の誤用(略)顔料の含む概念を熱国を想像せしむるに都合の好いように織合せた」(注14)と批判を受けている。一方で「近江八景」は「新技巧の消化せざるもの」であったが本図において「不消化的分子漸く取去られた」「刺激的なる色彩を用いて熱帯の気象を表現」(注15)したと評価されるように、「近江八景」の技法を発展させた風景画として、その可否とは別に新画風を決定づけるものとして捉えられた。技法について後年、紫紅の弟弟子・富取風堂は「全体が黄オーと丹との点描で、其処へ金砂子をもって調子をとった。用紙はドウサもひかず、わざわざにじみを利用した」(注16)という言説を残している。また松本楓湖、安田靫彦に師事した中島清之は「ドーサを引かずに生の儘の紙を使用し、白い羊皮の様な紙の上に柔らかい淡い墨の線がにじむ、重なり合った墨の溜まりや、淡くにぢんだ点体が何時もよりは慎重に行われ、膠の乗った所は墨がにじまない」「丹、黄、群青、緑青、胡粉、金等は原色」「椰子の葉の緑青にはベロ藍を混じ」た上で、「地面や山の点描は、なるべくゆっくり― 81 ―― 81 ―

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