と穂の短い筆で交互に空間を埋める様に置いて行く、先に置いた点が濡れている中に次のを落とすと互いになづみ合って柔らかい複雑な調子が出る」「二巻揃った処で海上の虹を架け、最後に金砂子を全面に散らした、この技術は古賀玄州を煩わし」(注17)たと詳細な記録を残す。研究史からは昭和59年(1984)の回顧展、翌年の全集より草薙奈津子氏による「紫紅は砂子蒔が下手で(略)器用な友人の古賀玄州に手伝ってもらった」(注18)と金砂子が仰々しく形式的であると指摘があり、中村溪男氏は「図を写生的にとらえるというよりも、感覚的に強烈な太陽の光線のもとにさらされた東南アジアの印象を、自身が抱いていた描法をフルに用いてあらわしたかった」とした(注19)。近年では佐藤道信氏により本図には美術院の先輩画家らが掲げた色彩化と琳派研究が反映されており「一見稚拙にも見えるここでの形態描写も、宗達やその背後にある大和絵の研究を反映している」との指摘がされた。さらに同氏は本図の背景に「主観表現への傾倒」があり、「龔賢風の米点描法と後期印象派の点描、そして宗達・琳派あるいは大和絵の色彩を統合して生まれた」とし、ゴーギャンになぞらえて紫紅が「破壊と創造」を求めてインドへ旅行したと論じている(注20)。古田亮氏は「琳派的な構図も意識されている。(略)三溪原富太郎の所蔵品だった『松原の巻』は、『熱国之巻』との構図上の関連性が強い」(注21)とした。また、点描技法について「近江八景」「比良」の山岳表現がセガンティーニの分割主義を想起させることから「《近江八景》から《熱国之巻》へと展開した紫紅の点描法は、少なくとも新印象主義のような科学的根拠に基づく視覚混合をねらったものとは違い、比較的単純なグラデーションの変化による色の集積によって色面をつくり出すものであり、その意味では装飾的な効果を期待するものであるといってよい」「東洋的な点描の伝統とヨーロッパ近代絵画の最先端であった分割主義的点描法とをあわせ持つような性質を持」つ「独自の点描表現であった」としている(注22)。以上のように本図の独特の描法を用い、鮮やかな色面構成を以て異国の風景を表した点は発表当時から着目され、その特異性が取り沙汰された。とりわけ草薙氏が「形式的」とした金砂子と、古田氏が分析した「独自の点描表現」は熱国の大気と赤土の大地を効果的に示している。本稿では、これらの表現を観察することで、本図での紫紅の取り組みを明確にしたい。2、作品構成細部の考察に入る前に、本図の構成を概観する。「熱国之巻」は「朝之巻」と「暮― 82 ―― 82 ―
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