越前では浮世絵用奉書紙を祖とする「雅邦紙」が漉かれていた。これは雁皮を含み表面が滑らかな紙であったが、岩野氏が改良し「画奉書」として純楮奉書を漉いたことで紙問屋の眼に止まり、大正14年(1925)に冨田溪仙の訪問を受けたという(注31)。岩野氏以外の製紙状況として明治31年(1898)に主要製紙家が共同で設立した越前製紙会社がある。この会社は明治42年(1909)に越前製紙工場として三田村貢氏により買い受けられ(注32)、この際の届出書の写しより製紙の種類は「印刷紙 程村紙 其他」〔資料2〕と分かる。「程村紙」は奉書紙に近い厚手の楮紙であり、岩野氏も純楮の「画奉書」を製紙したというように「紙質靭軟」「純白ニシテ光沢」(注33)という奉書紙の品質を誇った越前ならではの技術を用いた生産状況が読み取れる。岩野家文書、三田村家文書ともに明治後期の日本画用紙についての具体的な記録は現時点では確認できなかったが、越前において奉書紙は脈々と生産されており(注34)、紙問屋を通して画家の手へと渡り、基底材の選択肢の一つとして上がったものと考察される。以上の調査より紫紅が「近江八景」にて「福井の別漉」を使用し、「熱国之巻」でも同様の厚手の和紙を使用した時点で越前にて抄造されていた日本画用の和紙は「雅邦紙」と「画奉書」に代表される奉書紙であったことが浮かび上がってきた。このうち紫紅は、雁皮により墨線の美しさが生かされる滑らかな表面よりも、より厚手で水分吸収性が良く、表面に凹凸のある奉書紙に制作上の効果を見出し、挑戦的に活用した可能性が推察される。まとめにかえて本稿では今村紫紅筆「熱国之巻」について和紙を基底材としたことにより獲得した表現技法に着目し読み解いてきた。紫紅はそれまで日本画の基底材として一般的ではなかった厚手の和紙を用いることで画材の質感を用いて感覚に訴えかける表現を模索した。この基底材としての和紙への着眼は、同時代の画家の一歩先を取り入れたものであった。それまで墨線を生かすために滑らかな表面が好まれた日本画用基底材に対して、水分吸収性と凹凸があることで絵具が引っかかり、複雑な表面効果を得ることのできる基底材という新たな価値基準をもたらしたのだ。紫紅による画材の質感をも用いた絵画制作は周辺画家らに和紙を活用した新表現の可能性を示し、後の余白なく絵具を厚塗りで塗抹する日本画表現への移行とそれに伴う画紙開発に繋がったと考えられる。今回の調査を踏まえ画材変遷の側面から近代日本画史を捉えなおすことで、日本画における表現技法開発史の再構成を今後の課題としたい。― 86 ―― 86 ―
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