鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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があった(注5)。さらに『独楽園七題(独楽園七詠)』によると、読書堂は董仲舒、秀水軒は杜牧、釣魚庵は厳光、種竹斎は王徽之、採薬圃は韓康、澆花亭は白居易、見山台は陶淵明というように、過去の優れた文人たちに準えて建てられている(注6)。2.図様以上のような構成で造園された独楽園は、日本でどのように描かれてきたのであろうか。元和9年(1623)狩野一渓の『後素集』には「宮殿」の項目に「独楽園図」とあり、この頃までにこの画題が日本に伝来していたことが分かる(注7)。また、江戸時代前半に儒学者として幕府に仕えた林鵞峰(1618-1680)の文集に「独楽園図賛」とあり(注8)、17世紀半ばには独楽園図が存在したと思われる。しかし、実際に山雪の活動期である寛永、正保期にまで制作年代が上る「独楽園図」は管見の限り見当たらなかった。司馬光といえば「独楽園図」より「小児撃瓶図」や「温公釣江図」「温公観書図」といった司馬光自身の故事に基づく画題のほうがよく知られていたようで、『後素集』の「小児撃瓶図」には「独楽園図」にはない画題の説明文も付されている。海外に目を向けると、制作年代が山雪の活動期を上回る「独楽園図」がいくつか確認される。特に北宋期に活躍した仇英(1509-1551)の「独楽園図巻」(クリーブランド美術館蔵)〔図3〕(以下、仇英本)は、多くの模倣作品や派生作品を生んでいる。「独楽園図巻」は一巻本の図巻で、李龍眠(李公麟)様式(注9)で園内の様子─巻頭から順に秀水軒、読書堂、釣魚庵、種竹齋、採薬圃、澆花亭、見山台の様子が描かれている。異時同図法が用いられ、司馬光が時に書を読み、時に釣りをし、それぞれの場に遊んでいる。図のあとには、司馬光『独楽園記』、同『独楽園七詠』、蘇東坡『東坡独楽園詩(司馬君実独楽園)』と、二つの極書が続く。そのうち項禹揆(?-1659)の極めによると、図の部分は、(項禹揆が)父から授けられたものであり、書は後年、友人宅で発見した(項禹揆の)祖父の旧蔵でもあった衡山(文徴明)の書で、これを繋ぎ合わせて図巻にしたものであるという(注10)。ここで注目したいのが、図巻の中ほどに描かれた採薬圃の様子である。種竹齋から続く竹のアーチの先には竹をたわめて作った庵がある。一羽の鶴と、庵の中には虎皮の敷物を敷いて寛ぐ司馬光が見える。庵の周りには田んぼのように整備された区画が広がり、一区画に一種類ずつ薬草が植えられている。薬草が植えられた地の色は薄緑で、区画と区画の間は小道になっており、薬草はやや平面的に描かれ、葉だけではなく、花や実を付けるものもある。筆者は、このような図が升目の中に花卉を描く「流― 92 ―― 92 ―

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