鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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水花卉図屏風」のイメージの源泉となったのではないかと考える。前述のとおり仇英本はいくつかの模倣作品、派生作品を生んでいる。模本としては、仇英の娘・仇珠(1535-1612)の「独楽園図巻」(クリーブランド美術館蔵)が確認される。派生作品についてはオ・ダヨン氏の論文が詳しく、プラハ王立美術館(チェコ)、東アジア美術館(ドイツ・ケルン)、中央博物館(韓国)に、それぞれ16世紀後半、17世紀前半、17世紀後半から18世紀初頭の掛軸形式の「独楽園図」があることが報告されている。このうち、プラハ王立美術館本は伝・仇英とされ、そこに描かれた竹の庵、座る人物(司馬光)、竹を運ぶ人物たち、凝縮された七つの風景は図巻を参考にして、掛軸形式に再構成したものであると述べている(注11)。このような作例があることから、仇英本を基にした何らかの「独楽園図」が日本にも流入していた可能性が考えられる。時代は下るが日本では、18世紀の「藝苑合珍帖」(大和文華館蔵)の一つに、また19世紀木挽町狩野家による中国絵画模本(東京国立博物館蔵)には禅玄「独楽園」の写しがあり、いずれも掛軸形式に見られる凝縮した「独楽園図」が見られる。加えて、作者の山雪は中国の画題や図様をよく学んでいた絵師であり、明代に制作された版本類、拓本などからの影響もしばしば指摘されているところである(注12)。さらに想像を逞しくすれば、山雪が目にしていたであろう「独楽園図」は、仇英のオリジナル版に近いものであったと推測される。仇英本を下敷きとしない独楽園図も存在するが、それらには各区画に一種類ずつ平面的に薬草が描かれるといった特徴は見られず、採薬圃を描かないものもある(注13)。また、図巻から派生した掛軸形式の「独楽園図」の採薬圃は升目状に区切られてはいるものの、区画には複数の植物が植えられており、仇英本の採薬圃とは趣を異にする 〔図4〕。3.テクストと享受者ここまで「流水花卉図屏風」に見られる升目の中の花卉は仇英本の採薬圃を参考にしている可能性について述べてきた。「独楽園図」を単に写すのではなく、一切の人物を切り捨て、水面の円、升目の四角とで画面を幾何学的かつ装飾的に構成している点に、絵師山雪の様式的特質が存分に発揮されている。これほどまでに極端に意匠化された作品であるからにして、発注者及び享受者、そして描き手側にとっても、『独楽園記』のテクストの理解が欠かせなかったはずである。今一度、テクストについても検討してみたい。「流水花卉図屏風」とテクストの関係で見逃せないのは、やはり採薬圃の様子である。― 93 ―― 93 ―

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