鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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 沼東治地。為百有二十畦。雜塒草藥。辨其名物而揭之。畦北植竹方徑丈。狀若棊局。屈其杪。交相掩以為屋。植竹於其傍。夾道如步廊。皆以蔓藥覆之。四周植木藥為藩援。命之曰采藥圃(注14)。池(釣池)の東側にあって、百二十の区画に薬草が植えられ、その名前が分かるようになっている。畑の北側には、竹が将棋盤のように植えられていて、細い枝を曲げ、被せて小屋のようになっている。その傍らに竹を植えて回廊のような道を作り、蔓物で覆い、四方に木を植えて薬草を守った。これを採薬圃と命名する、とある。仇英の「独楽園図巻」は必ずしもテクストに忠実に描かれているというわけではないようだが、「百有二十畦。雜塒草藥」や「狀若棊局」(注15)といった記述は図中に反映されている。「流水花卉図屏風」に立ち返ると、典拠は林氏の指摘する蘇東坡の『司馬君実独楽園』よりも、司馬光の『独楽園記』そのものとしたほうがより適切であると思われる。画面下部に描かれた升目の中の花卉は前述のとおり、採薬圃または描かれている花卉は薬草ではなく、花や果物であることを見ると、採薬圃の南にあったという園芸場・澆花亭のイメージも追加されていたのかもしれない。上部の流水は秀水軒や釣魚庵といった園内を流れた水を描いたものと考えられ、屏風全体を通して、独楽園の世界を表現していると考えられる。『独楽園記』のテクストをもとに独楽園図を創作したと考えたとき、江戸時代前期における『独楽園記』の広がりについては留意すべき点である。『独楽園記』は江戸時代における漢文の入門書であった『古文真宝後集』に掲載されている。しかし、そこに掲載されている『独楽園記』は全文ではない。具体的に掲載されているのは、『独楽園記』の中盤「迂叟平日(後略)」以降、独楽園命名についての部分のみである。「則投竿取魚。執衽采薬。」など、園内の様子をほのめかす部分はあるが、これらから園内の詳細な様子を読み取ることは難しく、『古文真宝後集』では全文を知りえることはできない。しかし、全文が伝来していなかったわけではないようだ。林羅山(1583-1657)が書き、寛文3年(1663)の霞谷山人の序文を持つ『古文真宝後集諺解大成』(注16)は、『古文真宝後集』の注釈書であるが、『独楽園記』の補足として園内にある七つの東屋の名前を挙げ、それぞれの段落について説明を書き加えている。羅山は先に挙げた林鵞峰の父である。江戸時代前期の儒者で、初代徳川家康から四代家綱まで仕えた。羅山と鵞峰は三代家光と、四代家綱それぞれから国史編纂の命を受けており、司馬光の『資治通鑑』を参考に、羅山は『本朝編年録』を、またこれをもとに鵞峰は『本朝通鑑』を制作している。子の鵞峰の司馬光への思慕は強く、『本朝通鑑』― 94 ―― 94 ―

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