鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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た。古くは農作物の生産や天然石膏の採掘がさかんな土地であったが、19世紀半ばからは、パリ市民が余暇を楽しむ行楽地として徐々に活況を呈し始める。アルジャントゥイユを流れるセーヌ川は、流れがまっすぐで幅も広いことから、ヨットレースの恰好の会場となった。1870年に刊行されたガイドブックには200ものヨットがアルジャントゥイユの泊地に停泊していたと記されている(注3)。行政も工場の誘致に積極的であったことから、19世紀半ば以降、街の工業化は加速の一途をたどる。1870年代には人口が急増し街に賑わいがもたらされた反面、かつての長閑な郊外の風情は失われていった。1870年7月に普仏戦争が勃発すると、モネは戦禍を避けてロンドンに渡り、同じくロンドンに滞在していた画家シャルル=フランソワ・ドービニー(1817-1878)の紹介で、画商ポール・デュラン=リュエル(1831-1922)と知り合った(注4)。モネは後年、この紹介のおかげで「友人たちと私は飢え死にしなくて済んだ」と語っている(注5)。1871年に戦争が終結すると、モネはオランダに滞在した後、フランスへと帰国する。ちょうどパリでヴェルサイユ政府軍とコミューンによる市街戦が繰り広げられていた頃、ロンドンからカミーユ・ピサロ(1830-1903)に宛てた手紙には、フランスの当時の状況に対する「完全なる落胆」が綴られていた(注6)。7月にオランダから送られた手紙には、フランスには「まだ多くの描くべき美しいものがある」と書かれ、帰国後の制作への期待の高まりが窺える(注7)。1871年11月に帰国したモネは、12月にアルジャントゥイユの鉄道駅に近い家を借り、妻や息子とともにこの地に転居した。この入居には、アルジャントゥイユ対岸のジェンヌヴィリエに代々土地を所有していたエドゥアール・マネ(1832-1883)の仲介があったと考えられている(注8)。アルジャントゥイユのセーヌ川には、道路橋と鉄道橋という2本の橋が架かっていたが、戦禍でいずれもが破壊され、モネが同地に移住した頃は再建が進められているところであった。モネ自身も1872年には修繕工事中の道路橋を作品に描いている(注9)。帰国直後のモネの生活は決して経済的に余裕のあるものではなかったが、ロンドンで知り合ったデュラン=リュエルが、モネから1872年に30点近い作品を総額9,880フランで購入し、翌年には34点の作品を19,100フランで買い取っている。当時のアルジャントゥイユの労働者の平均年収が約2,000フランであったことを考慮すれば、この作品買上は、画家の新天地での制作活動を後押しできる十分な額であったと言える― 101 ―― 101 ―

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